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福岡高等裁判所宮崎支部 昭和62年(ネ)171号 判決 1992年7月17日

控訴人

日髙重喜

控訴人亡岩川ウイ訴訟承継人

岩川實

控訴人

日髙才次

大牟田常法

藤井ツナ

田中勝彦

竹村健二

柴甲十郎

岩川健

柴國江

日髙琴喜

控訴人亡柴勝藏訴訟承継人

柴チヨ

控訴人

柴勝丸

柴八代志

牧ツミ

柴鐵生

岩川イツ

岩川フミエ

控訴人(兼一審原告亡岩川セツ訴訟承継人)

岩川伍男

控訴人

岩川富儀

村田万里子

(旧姓・柴)

柴清弘

岩川信夫

右控訴人ら訴訟代理人弁護士

牧良平

吉岡寛

大嶋芳樹

被控訴人

右代表者法務大臣

田原隆

右指定代理人

野﨑彌純

外一五名

主文

本件控訴をいずれも棄却する。

控訴費用は控訴人らの負担とする。

事実

第一  申立て

一  控訴人ら

1  原判決を取り消す。

2  被控訴人は、控訴人らに対し、別紙1控訴人別請求金額一覧表中請求額欄記載の各金員及びこれらに対するそれぞれ昭和五四年一〇月一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

3  訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人の負担とする。

4  仮執行宣言

二  被控訴人

主文同旨

第二  主張

一  控訴人らの請求原因

1  控訴人らの地位等

控訴人らは、屋久島の鹿児島県熊毛郡上屋久町永田(以下「永田地区」という。)の土面川河口付近に土地建物を所有して居住し、若しくは居住していた者、又はその家族であるが、同地区は、その中央をおよそ南南東から北北西に向けて永田川が貫流し、地区北側を東から西に向けて土面川が流れ、両河川は永田川河口付近において土面川が永田川に流れ込む形で合流している。

2  本件災害の発生

昭和五四年九月二九日から同月三〇日、屋久島地方は、台風一六号の接近による風雨にさらされつつあったが、永田地区では、同月三〇日午前一時過ぎころには未だ風雨も通常の台風より弱いくらいであった。ところが、約一時間後の午前二時過ぎころ、永田地区土面川沿いに位置する一〇数戸の民家が突然ゴーという音とともに土面川を流れ下った土石流に襲われるとともに、土面川と永田川の合流点付近の地域では、県道を含め一瞬のうちに溢水して急流に呑まれた。

その結果、右土石流の直撃を受けた民家一二棟が流失又は全壊、六棟が半壊若しくは一部損壊の被害を受けたほか、全半壊を免れた民家も床上1.5メートル以上も泥水に没し、さらに、土石流が永田川河口に堆積して永田川を塞ぎ止める結果となったため、永田川及び土面川の水流が同地区のほぼ全域に侵入し、同地区の家屋のうち一三三棟が床上浸水の、八〇棟が床下浸水の各被害(以下、総称して「本件災害」という。)を受けた。

3  本件災害発生の原因

(一) 土石流の発生機構

本件災害は、前記土石流によってもたらされたものであるが、土石流の発生機構については、① 山地崩壊(急斜面地において保水能力の減少した表層土が降雨による多量の水分を含むことにより荷重の増加とせん断抵抗(斜面の摩擦力)の減少により保持力を失って崩れ落ちること)の発生が同時に土石流に発展するもの、② 崩壊によって供給された大量の土砂石が一旦渓流に堆積し、それが急激な出水によって土石流に転化するもの、③ 多量の巨礫や流木を含んだ渓流堆積物が流水のダムアップを起こし、それが決壊して土石流となるものの三つのケースがあるといわれている。

(二) 前記土石流の発生は、主として右①のケースによるものであるが、③のケースも競合して発生したものである。すなわち、前記土石流発生の直接の原因は、土面川上流約4.6キロメートル付近の国有林伐採跡の急斜面地が崩壊した(別紙図面2、3記載のA地点、以下「A崩壊地」といい、この崩壊を「A崩壊」という。)ことによるものであるが、当時土面川の渓底には大小多量の木材、伐根、立木のほか、渓底土砂石等が堆積していた。このため、発生源の土砂石は、右の堆積物を巻き込みながらこれらが一団となって土面川を流れ下り、河口付近にまで達したものである(以下、これを「本件災害発生の原因(一)」という。)。

そして、仮に被控訴人主張のように、土面川上流域で発生した土石流(以下、これを「本件土石流」という。)がいったん土面川河口から約2.5キロメートル上流付近の地点(別紙図面2、3記載のC地点付近)において堆積したとしても、右堆積量は約五万立方メートルに及ぶと推測され、このため同所付近においてダムアップ現象を起こして決壊し、これがさらに流れ下って被災地を襲ったものである(以下、これを「本件災害発生原因(二)」という。)。

以上の本件土石流の結果、渓谷左右の斜面の表層土は一五メートルないし二〇メートルの高さにまで削りとられ、かつ、川幅は数倍にも押し拡げられた。そして、前記のとおり、平地部に達した土石流は、川から溢れて両岸の農地、果樹園等を襲い、その一部が前記控訴人らの居住地域を直撃したものである。

(三) また、被控訴人は、本件土石流は、前記C地点から河口から約一三〇〇メートルの地点付近で解体されてエネルギーが消滅し、前記居住地域を襲ったのは単なる洪水による氾濫であると主張するが、仮に本件災害が土石流の直撃によるものでないとしても、A崩壊及び前記ダムアップ現象とその決壊により永田川河口に流送されて堆積した土砂石の量は約三万立方メートルにも達するもので、これが永田川の河口を塞いだことから、濁流が津波のように急激に控訴人ら居住地を襲ったものである(以下、これを「本件災害発生の原因(三)」という。)。したがって、A崩壊及び前記ダムアップ現象とその決壊が起こらなければ本件災害は発生しなかったといえるから、本件災害が、狭義の意味において土石流による災害といえなくとも、結局土石流のもたらした災害というに何ら妨げないものである。

4  本件土石流の発生原因と被控訴人の責任

本件土石流は、右のようにA崩壊と土面川渓底に多量の土砂石及び伐採された樹木の枝葉等が堆積していたことに基づき発生したものであるが、その原因は、以下のとおり、被控訴人が屋久島における国有林伐採事業を行うにあたり、これを直接所管し公権力を行使する公務員にあたる上屋久営林署長ないし各担当区主任らにおいて、広域皆伐方式により無制限に山林が伐採され、かかる伐採が行われれば山地崩壊及び土石流の発生をもたらすことを当然に予見できたにもかかわらず、群状択伐方式の採用あるいは保護樹帯を設置するなどの適切な指導監督を怠ったこと、並びに、土石流が下流にまで流下することを防止するに足りる相当数の治山ダムを設置せず、また、既に設置していた公の営造物たる治山ダムの設置及び管理に瑕疵があったことにある。

したがって、被控訴人は、本件土石流に基づく本件災害について国家賠償法一条、二条により控訴人らの被った損害を賠償する責任がある。

5  被控訴人の責任原因1(被控訴人の伐採行為等に基づく国家賠償法一条による責任)

(一) 屋久島の自然環境と地形の特殊性

(1) 屋久島山岳地の特殊性

屋久島は、九州本土の南端佐多岬の南方約六〇キロメートルの洋上に位置する山岳島であり、東西二八キロメートル、南北二四キロメートル、面積五〇三平方キロメートルの小島であるが、島の大部分が山岳よりなり、その山容は、九州第一の高峰宮之浦岳を始めとして九州第六位までの高峰を独占して海上に屹立している。山岳は海浜に迫って平地に乏しく、とりわけ西部山岳地帯は急峻な山地が一気に海に落ち込んでいる。山地の地質は、全体が風化花崗岩から成っているため山肌は脆く、台風の直撃地帯にもあたり、全国一の多雨地帯であって、風雨による災害を被ることが多い。なお、年間降雨量は、平地で三〇〇〇ないし四〇〇〇ミリメートル、山岳部では一万ミリメートルに達することもある。

(2) 土面川流域山地の特殊性

本件土石流の発生源となったA崩壊地は、土面川上流渓谷がほぼ尽きるところ、標高にして海抜九〇〇メートルから九五〇メートルの間に位置している。崩壊範囲は、約一〇〇〇ないし一五〇〇平方メートル、崩壊地点付近の山腹の傾斜度は約三五度、南北西の三方が更に急傾斜地に連なり、特に北側斜面は伐採不能の険阻地に接している。その地質は、河口付近を除き全てが風化花崗岩であり、標高六〇〇メートル以上の流域の斜面の約半分は三〇度以上の傾斜を有し、A崩壊地を含む土面支流域に限ってみれば、その全体が三〇度以上の急傾斜地又は険阻地である。

(二) 屋久島国有林伐採事業の進行

(1) 屋久島国有林伐採事業

屋久島は、その全面積中の約76.5パーセントにあたる三八五平方キロメートルが国有林であり、その大部分は屋久杉に代表される文化的にも貴重な原生林として太平洋戦争中でさえその伐採は控えられ保護されてきた。しかし、戦後の経済優先主義は、右原生林の管理にも及び、単なる木材供給源として取り扱われることとなった。殊に昭和三〇年代半ばからは高度経済成長政策の進展とともに、木材供給量の大巾増加が図られ、「生産力増強計画」の下に国有林の林相を大きく変えるほどの急激かつ大規模な伐採が行われた。このような伐採事業は、屋久島山系の外郭をなし、各集落の背後に位置する山々(いわゆる前岳)の森林についても同様に進行し、この部位が広範に裸地化された結果、山地の崩壊、土石流の発生が飛躍的に増加し、その大部分が伐採跡地に集中して発生した。そのため、森林の伐り過ぎがその主な原因であることは、昭和三〇年代に入るころから周知のこととなっていた。

(2) 土面川流域山地の伐採の進行

土面川流域の国有林は、営林署事業区区分によると、上屋久事業区五八、五九林班等に属し、本件土石流の発生源となったA崩壊地は、五九林班に属するが、右各林班の国有林の立木は、上屋久営林署が鹿児島林産株式会社に売り渡し、同社が昭和三八年ころから同五〇年ころまでの間継続して伐採した。その伐採は、下流域から林道の開設を伴いつつ上流域に向かって進行し、いわゆる広域皆伐方式をもって行われたが、そのうち昭和四四年ころまでに行われた伐採方式においては、保護樹帯が全く設けられず、昭和四五年ころから、ようやく伐区が多少縮小され、また、保護樹帯も多少設置されるようになったに過ぎなかった。

なお、本件土石流発生当時、A崩壊地から土石流が通過した土面川渓谷付近は伐採後一〇年ないし一〇数年を経過した皆伐跡地であり、また、前記伐採後の一斉造林地も、同様にすべて伐採後一〇年ないし一〇数年を経過した、いわゆる土壌緊縛力がもっとも低下する時期にあたっていた。

そして、右伐採事業の進行に伴い、同所付近の山地の崩壊や土石流の発生が徐々に増加し始め、その結果、土面川渓底には土砂石や投棄された樹木の枝葉等が堆積していった。このため、永田地区の住民らは、右の皆伐に基づき水害等が発生する危険性を感じ、上屋久営林署に対して度々皆伐方式の是正を申し入れたが、ことごとく無視された。

(三) 山地の開発、伐採並びに土面川流域開発における注意義務

山地は、その傾斜が急であればあるほど崩れ易く、また、斜面に繁茂する樹木を伐採すれば当該斜面はなお崩れ易くなる。したがって、急斜面の樹木を伐り過ぎると山地の崩壊が容易に起こるし、さらに、脆い地盤、多量の降雨という条件が加われば、崩壊及び土石流発生の危険性は更に増大し、林道の開発等、山地に人工的変更を加える場合も同様である。

また、戦後の屋久島国有林開発事業の進行に伴い、皆伐跡地の崩壊は随所に発生し、本件災害以前にその数は四〇〇〇箇所を超えるほどであったのであり、殊に、永田川、土面川流域は、屋久島のなかでも特に急峻な山岳部に属し、他の地域よりも更に危険度の高い地域であったのであるから、伐採による崩壊、土石流が発生する危険性を十分に予見することが可能な状態にあった。

したがって、一般に山地の開発、森林の伐採を行う場合には、当該山地の地理的条件、気象条件、崩壊の危険性等に応じ、伐採方式の検討、一伐区(皆伐対象地の単位区域)の範囲の縮小、相応の保護樹帯の残置、治山ダムの設置等をして、もって山地の崩壊、土石流の発生等による災害を未然に防止すべき注意義務があるが、殊に前記のような状況にある永田川、土面川流域については、禁伐区の大巾な設置、保護樹帯の幅員の拡大、予想される流出土砂を防止するに必要な規模の治山ダムの設置、また、伐採、集材手段の近代化に伴い多量に発生する枝葉など樹木の不要部分の処理方法並びに集材方法の適切さ等についても十分な配慮をすべき注意義務があった。

そして、この点は、熊本営林局においても昭和五一年度通達(五一熊計第三二六)において保護樹帯配置に関する内規を定め、渓流沿いに設置する保護樹帯については、隣接する河川、渓流に対し土砂の流失崩壊のおそれがある箇所にあっては、渓流の両岸からそれぞれ三〇メートルを基準として設置すべきものとし、現地の地形地質並びに危険度に応じてその幅員を調整しつつ設置すべきことを定め、また、林道沿いに設置する保護樹帯についても同様の基準を定めていること、さらに、同営林局作成の屋久島国有林第三次地域施業計画(計画期間昭和五二年四月一日から昭和六二年三月三一日)の施業方針大網においても「集中豪雨や台風が常襲する当地方において、その施業は国土保全及び水源かん養上重要な影響を与える。特に局地的な集中豪雨等に対する保安効果を促進するため、努めて伐採箇所を分散し、伐採面積を縮小」すべきものと定めていることからも明らかである。

(四) 被控訴人の注意義務違反

被控訴人は、前記のとおりの土面川流域の危険度に応じ、一伐区を小規模にし、群状択伐方式の採用を考慮すべきであったにもかかわらず、収益拡大という経済的理由にとらわれ、広域皆伐方式(一伐区の面積が二〇ヘクタールにも及ぶ皆伐方式)を採用し、土面川流域の五八、五九林班においては、昭和三五年から同四五年ころまでは、伐区という観念を無視し、最大面積二〇ヘクタールの制限を超えて、谷や尾根のみならず急峻地・険阻地さえも全く考慮することなく山地全体が伐り払らわれるのを容認した。また、特に急峻な山域である五九林班につき、禁伐区を大巾に設定して災害防止措置を採るべきであったにもかかわらず、伐採不能な険阻地を除外しただけであったし、保護樹帯については、現地の地形地質並びに危険度に応じ、前記基準の三〇メートル幅を拡大調整して稜線及び渓流両岸沿いに設置すべきであったが、実際には稜線沿いに僅かに残置しただけで、渓流沿いの保護樹帯については設置されてもいなかったのに、何らの指示をすることもなくこれも容認した。

五九林班において伐採された樹木は、A崩壊地から約五〇〇メートル下流の地点に集められたが、そこで枝打ちされた枝葉等の不要部分は同地点直下の土面川渓谷に投棄されたため、長期間に及ぶ伐採期間中に投棄された枝葉等は土面川渓谷にうず高く堆積されることになった。

さらに、伐採された樹木はワイヤーロープで牽引されて搬出されたが、その際、樹木が地表面を攪乱する結果となっていた。この点は、A崩壊が集材のためのワイヤーの張られた真下で、その線の方向と一致して起こっていること、右ワイヤーの結び付けられる支柱(大きな生立木)付近の山腹が最も荒され脆弱化すること、現に、本件災害後、右集材架線に沿った後記A支流沿いの伐採跡地において、A崩壊よりも規模の大きな崩壊が二箇所起こっていることからも裏付けられる。

しかるに、被控訴人は、これらの枝葉の投棄や搬出方法に対して何ら適切な指示、指導をしなかった。

また、被控訴人は、本件土石流発生以前に、土面川渓谷に治山ダムを設置していたが、右ダムは、規模と設置個数において、発生することが当然予想される大規模な崩壊、土石流を防止するに足りるものではないことが明らかであったのであるから、その規模等も考慮して多数設置すべきであったのにこれを設置しなかった。

(五) 以上のとおり、本件A崩壊及びこれを引き金とした本件土石流は、被控訴人の容認した山地の伐採に起因することが明らかであり、本件土石流の発生は当然に予見できたのであるから、被控訴人は、国家賠償法一条により、本件土石流によって発生した控訴人らの損害を賠償する責任がある。

6  被控訴人の責任原因2(公の営造物の設置及び管理の瑕疵に基づく国家賠償法二条による責任)

本件災害前、被控訴人上屋久営林署は、土面川に治山ダムを設置し、以後、これを管理してきたが、右ダムは、公の営造物にあたる。

ところで、治山ダムは、その性質上これが設置された河川の自然条件及び流域の開発状況に応じて予想される流出土砂を防止するに足りる性質、規模を備えているべきである。しかるに、右治山ダムは、本件土石流によって破壊され、土石流の流下を全く防止することができなかった。

したがって、被控訴人の設置した公の営造物たる治山ダムは、その本来備えるべき安全性を欠き、その設置及び管理に瑕疵があったことが明らかであるから、被控訴人は、国家賠償法二条により控訴人らの被った損害を賠償する責任がある。

7  損害

控訴人ら(ただし、控訴人岩川實、同柴チヨ、同岩川伍男については、同控訴人らの訴訟承継前の亡岩川ウイ、同柴勝藏、同岩川セツである。)は、本件土石流による災害によって、その所有又は居住する土地家屋の流失、一部損壊、床上浸水、家財道具等の損壊、農作物の損害、営業用商品その他の流失等により、多大な財産的、精神的損害を被った。

なお、控訴人らは、右の各損害のうち所有土地の流出に関しては復元あるいは補償、代替地の供与等を受けたが、それ以外にはなんらの補償も受けていない。

その後、右訴訟承継前の亡岩川ウイら三名は死亡し、同人らの右各損害賠償請求権を右控訴人岩川實ら三名がそれぞれ相続により承継した。

そこで、控訴人らは、右各損害のうち、別紙2控訴人別損害一覧表記載のとおりの損害の賠償を求める。

8  よって、控訴人らは、被控訴人に対し、国家賠償法一条、又は同法二条により、前記控訴人らの各金員及びこれらに対する不法行為後の昭和五四年一〇月一日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1の事実のうち、前段(控訴人らの地位)は不知、後段(永田地区の地形)は認める。

2  同2の第一段の事実のうち、控訴人ら主張の日時に屋久島地方に台風が接近し、同島が風雨に見舞われたことは認め、その余は争う。

同第二段の事実のうち、民家一二棟が全壊(流失したことは不知)、六棟が半壊又は一部損壊の被害を受けたこと、永田川流域の民家を含めて床上浸水一三三棟、床下浸水八〇棟の各被害が生じたことは認め、その余は不知。

3(一)  同3の(一)は不知ないし争う。

(二)  同(二)のうち、A崩壊地が崩壊したことは認め、その余の事実は不知ないし争う。

(三)  同(三)は争う。

4  同4は争う。

5(一)  同5の(一)(1)の事実は認める(ただし、山地の地質は概ね花崗岩であるが、周辺部は中世層である。)。

同(2)のうち、A崩壊地が控訴人ら主張の位置に位置していること(ただし、崩壊地は正確には標高961.5メートルの地点から始まっている。)及び崩壊面積は認め、その余の事実は否認する。

(二)  同5の(二)の(1)(2)の各事実は争う。ただし、A崩壊地が五九林班に属することは認める。

(三)  同(三)の事実は争う。ただし、昭和五一年度通達(五一熊計第三二六)、同営林局作成の屋久島国有林第三次地域施業計画(計画期間昭和五二年四月一日から昭和六二年三月三一日)の施業方針大綱に控訴人ら主張のとおり定められていることは認める。

(四)  同(四)、(五)はいずれも争う。

6  同6の事実のうち、上屋久営林署が土面川に治山ダムを設置しており、右ダムは、被控訴人の管理する公の営造物にあたることは認め、その余は争う。

7  同7の事実は不知ないし争う。ただし、控訴人岩川實ら三名の相続による権利承継の事実は認める。

8  同8は争う。

三  被控訴人の主張

本件災害は、本件土石流によって発生したものでなく、以下のとおり、昭和五四年九月二三日ころ発生した台風一六号(以下「本件台風」という。)による異常豪雨のため、土面川及び永田川に急激な流量の増加をもたらし、これに両河口付近の自然の悪条件が重なって生じた河川の氾濫によって発生した洪水被害によるものであって、本件土石流と本件災害との間には相当因果関係はなく、また、本件土石流の原因となったA崩壊は、崩壊地の地形、地質を素因とし、右豪雨を誘因として発生したもので、森林伐採との間には自然的因果関係すらないものである。

1  本件台風の概況と屋久島における異常豪雨の発生

(一) 本件台風の概況

本件台風は、カロリン諸島付近にあった熱帯低気圧が昭和五四年九月二三日に台風一六号となり、二六日朝から北上し、二九日夕方に向きを北北東に変え、三〇日朝に種子島の南端をかすめ同日夕方四国の室戸市付近に上陸したが、黒潮本流に沿って北上したため勢力が強く、また、東海上から日本付近に張り出した太平洋高気圧に進路を阻まれ、しばしば停滞気味になるなど移動速度が遅かった。このため、奄美地方では、台風を取り巻く厚い雨雲におおわれ、長時間暴風雨が続いた。

(二) 本件台風の屋久島における影響

(1) 本件台風は、同月二六日ころから屋久島に風雨の影響を与え始め、二九日夜から三〇日朝にかけて同島の南方海上から東方海上に向けて通過した。

屋久島では、同月二六日から三〇日まで降雨があり、とりわけ二八日と三〇日には特に集中的な豪雨があった。これを具体的にみると、屋久島北東海岸部の小瀬田にある鹿児島地方気象台屋久島測候所(以下「屋久島測候所」という。)の観測結果によると、右五日間の全雨量が442.5ミリメートル、二八日が159.0ミリメートル、三〇日が117.0ミリメートルであり、特に二八日四時から八時までと二九日二二時から三〇日四時までに集中的な豪雨があった。

また、同島中央内陸部のやや東部にある小杉谷観測所(屋久島電工株式会社が小杉谷取水口に設置したもので、海抜六九七メートルの地点に位置する。)で観測された雨量は、別表1―1のとおりであるが、五日間の全雨量が1210.0ミリメートル、二八日が519.5ミリメートル、三〇日が297.5ミリメートルであり、特に二八日四時から一五時までと二九日二二時から三〇日四時までに集中的な豪雨のあったことが観測されている。なお、小杉谷観測所の観測した右数値は過去二二年間で三回出現している程度の稀にみる連続雨量である。

そして、右五日間のハイエトグラフ(降雨量の時間的変化)の形状をみると、別表1―4のとおり右両観測結果はほとんど類似の形状を描いている。

右の点から、本件台風による降雨は、二つの豪雨のピークがあったことが特徴であり、また海岸部と内陸部では後者に約2.7倍程度の雨量があったと認められる。内陸部の高山地帯に雨量が多いのは、本件台風に特有のものではなく、屋久島のような海上に独立した山岳地形の特色であると考えられる。

(2) なお、小杉谷観測所とその更に上流域である西側内陸部の雨量については、次のとおり、後者の方がより多量の雨量があったと考えられる。すなわち、小杉谷観測所地点を流れる安房川の流量について、同地点で実際に測定された流量のハイドログラフ(時間流量曲線)と、同地点の降雨量(小杉谷観測所で測定された降雨量)を基礎として推定して算出された推算ハイドログラフを比較すると、前者の流量が同月二九日一五時から二三時までの間で約2.5倍、三〇日零時から五時までの間で約1.5倍の数値を示しており、このことは、安房川の小杉谷観測所地点付近において、同観測所で測定された降雨量によって生ずると推定される流量以上の流量が現実に生じていることを示すもので、すなわち同地点より上流はより多い降雨量があったことを表しているからである。

2  土面川及び永田川流域の降雨量

土面川及び永田川流域(以下「本件地域」という。)については、雨量の観測資料が存しないが、以下のとおり、本件地域の地形、当時の気象状況、近接する小杉谷観測所の観測資料、並びに、土面川流域に本件災害後に設置された自記雨量計による観測資料をもとにして本件地域の降雨量を推測すると、本件災害時ころ、本件地域には異常なまでの豪雨があったといえる。

(一) 本件地域の集水域は、屋久島北西部の海岸から同島中西部を南北に縦走する稜線の分水嶺までで、この斜面は、西から東にかなりの急斜面をなしており、また、右分水嶺をなす稜線は、同島北部の標高907.9メートルの志戸子岳から標高1165.2メートルの吉田岳、標高1409.3メートルの坪切岳を経て、標高一八八六メートルの永田岳に連なるもので、北から南にかけてかなり急に高くなっており、結局、本件地域は、概略北西から南東にせり上がっている地形である。

なお、本件地域の南東に位置する宮之浦岳の東側は小杉谷観測所の上流域にあたり、この両地域は比較的近接した位置にあるのに対し、屋久島測候所は、本件地域から東方約二〇キロメートル離れた海岸部に位置している。

(二) 地域による降雨量の較差は、標高の差と急激な上昇気流の有無によって影響を受けることが広く知られているが、前記(二)(2)のとおり、小杉谷観測所地点よりその源流部の方がより多量の降雨があったと判断され、このことからも標高の増加とともに降雨量も増加することが明らかといえる。

次に、急激な上昇気流も降雨量に大きな影響を与えるが、これは急激な上昇気流があれば、気温及び気圧が急激に低下して空気中の水分含有能力が減少することにより生じるもので、収れん性降雨といわれる。そして、本件地域のような地形においては、稜線に対し北西の風のときが最もよく収れん性降雨が生じ得るが、稜線の東側で生じた上昇気流による雨雲も稜線を越えてしばらくの間は雨を降らせることになるから、結局、本件地域においては、北東の風から北及び北西の風のときに収れん性降雨が生ずると考えられる。

ところで、本件台風時の風向については、屋久島測候所の観測資料があるが、右測候所は屋久島北北東側の海に面し、背後に急峻な山岳を控えていることに加え、右測候所と本件地域とは東西に約二〇キロメートルも隔たっているので台風の中心から右両地点への方位も相当異なっている。したがって、右測候所で観測された風向は、本件地域の真の風向を表しているとはいえず、結局、本件台風時の風向については、台風時の風がその中心部に向かって反時計回りに吹き込むことから、本件台風の中心とそこからの方位及び距離を考慮し、かつ、屋久島測候所の観測資料を総合して判断すべきところ、本件地域においては、地形の影響により右測候所より少し早めに北北西あるいは北西の風が吹いたと推定され、この風により十分に湿気を含んだ空気が本件地域の斜面を急上昇して顕著な収れん性降雨の現象を生じていたと考えられる。

(三) さらに、被控訴人は、本件災害時の降雨量を推測するため、本件災害後に、土面川下流地点(上屋久営林署永田担当区事務所敷地内)、同中流地点(標高七二〇メートル付近の尾根)及び同上流地点(A崩壊地付近の標高九二〇メートル地点)の三箇所に自記雨量計を設置して雨量観測を行ない、同時期の小杉谷観測所の観測資料と比較検討した。その結果によると、土面川流域では標高が高くなるほど降雨量が増加し、特に土面川源流部では月降雨量、一連続雨量ともに小杉谷観測所より多い雨量を示しており、土面川の中、上流域はいずれも警異的な多雨地帯であるといえる。

(四) なお、右の点は、その後改めて、本件台風の進路と類似する昭和六二年一〇月の台風一九号による一〇月一四、一五、一六日の降雨につき、屋久島測候所、小杉谷観測所及び前記土面川の上、中流域観測所の各雨量を観測した結果をみると、一四日は全体的に雨が少ないが、土面川上・中流域では一五日から増え、土面川上流域では小杉谷観測所の四倍以上の、また、最も降雨の多かった一六日には小杉谷観測所で五八五ミリメートル、土面川上流域で一〇一二ミリメートルもの降雨量があり、ここでも1.7倍の降雨量があった。ちなみに、一六日二一時の屋久島上空八五〇ミリバールの風向は北である。

(五) 以上のように、本件台風自体がかなりの豪雨をもたらしたことに加え、本件地域が高山地帯で、かつ、そこを上昇気流がかけ登り、本件災害時に土面川及び永田川の上流域には小杉谷の雨量より多い雨量、若しくは少なくともそれと同程度降雨があったものと推定される。

なお、本件災害発生の翌年に撮影した空中写真によると、本件災害時に崩壊したとみられる山腹崩壊は、そのほとんどが土面川流域からその背面に位置する宮之浦川及び永田川流域一帯に集中していること、本件台風時の河川の氾濫は土面川と永田川のみであること、さらに、土面川上流で土石流が発生したことなどの事情も、本件地域に特に集中的な異常豪雨があったことを裏付けている。

3  本件災害時の土面川及び永田川の流量(本件災害の原因)

土面川及び永田川の流量については、観測資料がないため推定によって算出するしかないが、以下のとおり、降雨量に基づくハイドログラフ推算法(A・D・Tモデル)により両河川の流量を推定して算出し、これに両河川の河口部の自然条件を総合して検討すると、本件災害は、土石流とは無関係に発生した洪水によるものであるということができる。

(一) 土面川及び永田川の流量とその時間的変化については、別表2の推定ハイドログラフ(以下「本件推定ハイドログラフ」という。)のとおり推定される。

これは、小杉谷観測所での降雨量を基礎として、すなわち、本件地域にも小杉谷と同程度の雨量があったと仮定して、これに本件地域の各種因子を数値表現して両河川のハイドログラフを推算して作成し、これに前記小杉谷観測所地点で観測された安房川流量ハイドログラフに前記1(二)(2)の推算ハイドログラフとの比率を乗じて補正して作成したものである(なお、前記のとおり、本件地域には小杉谷より多くの降雨量があったものと推定されるから、現実の流量は右推定流量を上回っていることになり、右数値は最小限度の数値といえる。)。

(二) そこで、本件推定ハイドログラフによって検討するに、土面川では二九日一四時から増水が始まり、二二時までは毎秒約四〇ないし五〇立方メートルで、その後翌三〇日二時四〇分までは直線的に増加し、二時四〇分にはこれまでの最大値毎秒約一〇三立方メートルとなり、その後わずかに減水したが、再び増水を始め四時には毎秒約一〇七立方メートルの最大値を記録したのち減水を始めたと推定される。一方、永田川については、流域面積は土面川流域に比べて約六倍と広いが、ハイドログラフは、ほぼ同じ形を示し、三〇日の二時四〇分には毎秒約六四〇立方メートル、また四時には毎秒約六六〇立方メートルの最大値を示し、その後減水を始めたと推定される。

したがって、土面川と永田川の最大流量の出現時刻はほとんど一致している。

(三) 土面川及び永田川の各下流部の河川断面は別紙図面1のとおりであるが、本件台風による豪雨には二つのピークがあったのであるから、第一のピークによる流水及び第二のピークによる流水のうち河川氾濫直前までの流水によってかなり多量の土砂が流送され、これが両河川の下流部河道及び河口付近に集積されていたはずであり、したがって、両河川の氾濫時の河川断面積は現実にはかなり狭少であったといわねばならない。また、両河川の河口部には発達した砂州があり、これが両河川の流水の流出を妨げている。

(四) また、本件洪水時の満潮時は、一湊港で二九日二三時五六分であり、永田港もほぼ同様と解してよい。

(五) 以上を総合すると、土面川も永田川も、二八日を中心とする豪雨によって流送された土砂石の堆積により、河口付近の河道断面積を狭められていたところへ、二九日二二時ころから急な増水が起こり、これに河口付近の満潮が重なったことから、背水作用(下流に設けられた障害物により流下が妨げられて流下水の水位が上昇する作用)が生じ、また、流れの速度の急減により運搬力を喪失して河口付近及びその上流数一〇メートルの河道内に多量の流送土砂石の堆積が起こったため、河川が氾濫したものであり、この氾濫は、二九日二二時ころから流量の最初のピークである三〇日二時四〇分ころまでの間に起こり、その氾濫状態はその後もある程度継続したものと判断される。そして、本件災害では家屋への浸水が非常に多く、全半壊の家屋も流失するには至っておらず、土面橋の決壊はなく、被災地付近には水が引いた後にも土石流が運搬するような大径石はなかったのであるから、流域のあらゆるものを一掃するような土石流が被災地を襲ったとは考えられず、本件災害は、河川の氾濫による洪水、あるいは、河川氾濫に必然的に伴う土砂石や流木を含んだ流水によってもたらされたものと考えられる。その洪水も、降水量の非常に多いピークが二八日と三〇日に二つある異常豪雨に満潮等の自然の悪条件が重なって発生したものである。

4  山腹崩壊と土石流

前述のとおり、本件災害と山腹崩壊(A崩壊)及び本件土石流の発生との間には自然的因果関係すらないものであるが、さらに、以下のとおり、山腹崩壊及びこれを引き金とする本件土石流の流下は、森林伐採及び本件災害と関係がないものである。

(一) 崩壊と土石流発生の一般論

山腹崩壊や土石流の発生原因等については、未だ科学的に解明されていない点も多いが、およそ次のとおり考えられている。

(1) 山腹崩壊について

崩壊は大雨や地震、浸食、火山爆発等によって起こる。これらの直接的動機となる原因を誘因という。しかし、誘因が襲えばどこでも起こるわけでなく、地質、土壌、地形等の諸条件により発生したりしなかったり、あるいは発生してもその程度や形態が異なってくる。このように本来山腹は現象の発生に対していろいろな素地をもっている。このような原因を素因という。崩壊は原因である誘因と素因の多数の条件の組み合わせによって起こるものである。

ところで、本件災害地の流域の地質は花崗岩類地帯に属しているので、この地帯の崩壊を分類すると次の三つに分けられる。

① 浅層(表層)崩壊

山腹斜面の花崗岩類母岩の表層部が化学的に風化してくると、降雨によってその表層部に疑似的滞水層が形成され、クイックサンド現象(間隙水圧の上昇などの影響を受けて土体内部の摩擦係数が急激に減少する現象)により崩壊が生ずる場合があるがこれを浅層崩壊という。この浅層崩壊は、内地では二〇〇ないし二五〇ミリ程度の降雨により比較的容易に発生するが、その規模は小面積にとどまる。このような岩質条件の箇所は、地表面が裸出すれば表面浸食が促進し、あるいは浅層崩壊が発生する原因となるが、森林によって被覆されれば表面浸食はほとんど防止され、浅層崩壊も軽減される。したがって、一般に伐採によって浅層崩壊が発生する可能性は高くなるといえる。

② 深層崩壊

花崗岩類の風化細粒土が物理的に移動して山腹斜面あるいは凹地形部に厚く(一メートル以上)堆積しているような箇所では、かなりの豪雨により滞水層が肥大し間隙水圧が異常に上昇して深層から崩壊が発生する場合があるが、これを深層崩壊という。

これは降雨が長時間継続し、量的に内地では三〇〇ミリ以上に達した場合に発生するといわれているが、深層から崩壊するものであるから、地上林木の根系が崩壊を防止する効果はあまり期待できず、森林の有無にかかわらず発生する場合が多い。また、この崩壊が土石流発生の引き金となる場合もある。

③ 節理崩壊

花崗岩類が動力的な圧力を受け節理(岩石中に発達する比較的一定した方向をもつ割れ目)が発達し、しかもその節理に沿って岩石が化学的に風化変質している場合にとくに豪雨によって岩崩壊を発生する。小規模のものもあるが、かなりの深層から崩壊する場合もあり、この場合にはえてして土石流の誘因になる。節理が発達した岩石は、化学的風化部と硬岩部が局所的に複合しており、崩壊と同時に大径石も細粒砂も共に崩落土砂として流下する。このような崩壊も地上の林木の有無とはほとんど関係なく発生する。

(2) 土石流について

① 特性

ア 土石流の流動する形式は、「各個運搬」ではなく「集合運搬」と説明されている。ここに各個運搬というのは、流水の掃流力すなわち河川の流水が河床の土砂を押し流す力で土砂石が各個に流送、運搬される状態をいい、河川の洪水時などの土石の移動がこれに該当する。他方、集合運搬というのは、大小さまざまな土石と水との混合物がそれ自体の重力の作用で一体となって運搬されるものである。この場合には、水に対する土石の割合がかなり多く、土石と水の混合体が一体となって斜面を流下するものである。

土石流について、更に詳しく説明すれば、次のとおりである。

土石流の先頭は盛り上って通常大きな岩塊が集まっており(フロント)、このフロントの後にも大量の土石が続いて流れ、後になればなるほど土石の粒子は小さくなり、礫・砂・泥となり、終りの方は泥を含んだ流れになる。土石流の流れる速さは、主として谷の勾配・形状・土石流の規模及び構成分(土・石・水)の割合など種々の影響によって異なると考えられている。

土石流の波速は非常に広範にわたるが、一般には毎秒一〇ないし一九メートルの値を示す。砂礫流の流速は毎秒三ないし七メートルの値であることも測定されている。概して土石流は一五ないし二〇度以上の勾配地帯を発生源とし、一〇ないし一五度の地帯を流下し、一二度以下の地帯、特に3.5ないし一〇度の地帯(統計結果では最頻値六度)が停止帯となっている。通常土石流は、停止すると先頭に大径石の堆積を作る。しかし、後続の洪水によりこの堆積は崩されることもあるから確認できない場合もある。

イ 土石流災害は、洪水の氾濫のようにある一定標高以下の地域を広く水没させるものではなく、また徐々に水位が上がる現象でもなく、フロントが急激に襲ってくるものである。したがって、洪水の氾濫などは、ある程度の時間的ゆとりがあり、本件災害時のように避難することも可能であるが、土石流の場合は避難するための時間を確保できず、地震災害に極めて類似するといわれている。

② 発生形態

過去に発生した土石流の調査結果から推測すると、一般的な土石流の発生形態として、次の三つのものがあげられる。

ア 粘土鉱物生成帯の土石流

主として破砕帯・新しい海成粘土地帯・温泉余土及び変朽安山岩地帯に発生する。この地帯の地質は粘土鉱物の吸水性・吸水膨張圧の発生等によって泥状化し易い特性があるため、降雨等の刺激によって土石流が誘発される。

また、右の現象は地下水との関連もあり、常に水分で飽和した土層を保有する場合が多いので、必ずしも大降雨時に発生するとは限らない。なお、この粘土がリモールド(練返し)されると、ますます泥流状となり地すべり活動にともなって発生する場合もある。

イ 火山性堆積物からの土石流

土粒子の見かけの比重が小さく、空隙率の大きな、例えばスコリヤ(軽石の一種)堆積層等においては、間隙水圧の上昇にともなって急激に摩擦係数が低下し、クイックサンド現象を発生し、土石流を誘発する。

ウ 風化細粒子の堆積からの土石流

これも堆積物の空隙率が主な原因となるが、花崗岩類の風化砂土の堆積の場合は、緻密な堆砂構造を示さない場合が多いため花崗岩類の堆積は間隙率の大きな堆積(間隙率三〇ないし五〇パーセント)となる。そのため、長期間の降雨により間隙水圧が異常に上昇し、急激に摩擦係数が低下すると、クイックサンド現象が発生し土石流誘発の原因となる。特に、降雨の継続時間が長く、量も多い場合に発生し、本件土石流もこれが主な原因となっている。

③ 発生の機構

経験的に把握されている土石流の発生に関係する因子の主なものとして渓谷の勾配・堆積物の蓄積・多量の水の供給の三つがあげられ、土石流はこれらに、その他の因子、例えば岩石の風化の度合・植生の状態・山崩れなどの状態・その他地震・噴火などが複雑にからみ合って発生するといわれているが、このうち最も土石流の発生を支配する降雨についてみても、降雨が流出し谷底を流れ、あるいは地下を浸透し渓流の堆積物に作用して土石流に至らしめる過程について十分な解明がなされていないのが実情であり、結局、このような概念的な考え方のみでは、現実問題として土石流の発生の具体的な予知はほとんどなし得ないのである。別の見方をすれば、このような条件からは、我が国に存在するほとんどの谷がこれに該当するといっても過言ではないのであり、本件災害発生時の行政及び科学的水準では、土石流発生の予知は極めて困難であったといわざるを得ない。

(二) 本件災害時のA崩壊と本件土石流の発生原因

(1) A崩壊について

本件土石流は、A崩壊地の崩壊がその発生の引き金となったと思われる(A崩壊が直接本件土石流を惹起したとの確たる根拠はなく、A崩壊を引き金とし、これが後記A支流を下るうちに本件土石流となったものと推定される。)が、A崩壊地は、平瀬国有林五九林班ろ小班内を流れる土面川の支流(以下「A支流」という。)の最上部、河口から約4.6キロメートルの地点にあるところ、その長さと幅は、最大長120.1メートル、最大幅21.1メートル、面積は、約一五〇〇平方メートルであり、その崩壊深は、崩壊前の空中写真及び五千分の一の地形図をもとに推定、復元した結果から最大崩壊深は3.5メートルに達するものである。

また、A崩壊地は、その痕跡及び調査結果によると、風化の程度の著しい花崗岩地帯であるうえ、モンモリロナイト等の粘土鉱物の堆積も認められ、また、母岩の相当深部から崩壊しているのであるから、前述の深層崩壊と断定しうる。なお、ここにいう粘土鉱物は、含水し易く排水し難く、含水すれば膨潤し、更に練り返されることによって、そのせん断抵抗等が極度に低下せしめられていく性質を有しており、土石流誘発の原因となるものである。このような母岩の風化状況等の地質構造からすれば、このA崩壊地は伐採造林等による森林の変化とは無関係に、ある時期がきて誘因となる異常な豪雨があると崩壊が発生する地形だったのであり、本件洪水時の崩壊はいわゆる地形輪廻の一過程としての現象であったと判断しうる。また、深層部分の風化花崗岩及び粘土鉱物が崩壊の原因となっているのであるから、この崩壊は予測困難な崩壊であったと判断しうる。

(2) 次に、本件災害時に生じたと思われる土面川流域の山腹崩壊を全般的にみるに、空中写真及び現地踏査の結果によると、伐採区及び非伐採区における崩壊の個数及び面積等は次のとおりである。

全面積(ヘクタール) 崩壊個数 崩壊面積(m2)

伐採区 250.04 一〇二個 二一七〇七

(うち浅層八二個 一三一九一)

(うち深層二〇個 八五一六)

非伐採区 115.14 一〇個 四三六七

右によって検討するに、崩壊地の全面積は土面川流域の国有林面積(約三六五ヘクタール)及びこれに民有林を含めた面積(約五〇〇ヘクタール)に対し、それぞれ0.7パーセント、0.5パーセントであり、一般的に花崗岩類の風化地帯の豪雨による崩壊面積は2.5パーセントないし4.5パーセント程度の値を示していることからすれば、決して大きな値ではない。

また、右の非伐採区の崩壊は、伐採と関係のない地質的要因により生じたものであり、同様の崩壊は伐採区においても発生するものと考えられるから、非伐採区における崩壊個数と崩壊面積の比率から、伐採区における伐採と関係なく生じたと思われる崩壊を推算すると、次のとおり、崩壊個数約二二個、崩壊面積九四八三平方メートルとなる。

崩壊面積 4367÷115.14×250.04≒9483

崩壊個数 250.04÷115.14×10≒22

右の各数値は、伐採区における深層崩壊の個数と面積におおよそ対応するものであって、これによると前記現地踏査の結果は、概ね妥当性を有するものといえるのである。

さらに、崩壊地の平均面積は、約二四〇平方メートルとほとんど小規模であって、しかも、そのほとんどは浅層崩壊であり、多くが土面川の流域に達しないところで終息していることが認められており、また、本件土石流によって流送され、後記C地点を通過した土砂石の量(約三万八〇〇〇立方メートルのうちの約二〇〇〇立方メートルと推算される。)は、右の伐採と関係のない崩壊によって崩壊流失した土砂の量を越えないことが認められるのであって、前記伐採と関係のある崩壊による土砂石は、本件土石流の発生、生成に何ら関与していないといえる。

以上の点を総合すると、土面川流域及び本件地域は、豪雨による崩壊に対し、かなりの免疫性を有していること、すなわち、この地域では度々の豪雨により、恒常的に山腹崩壊が発生していること、また崩壊地への植生の侵入も早いことから、山地の母岩そのものが豪雨に対してかなりの免疫性を有していることを示しているものといえる。この点は、後記のとおり、昭和四六年に設置した治山ダムに対し、本件災害以前にあまり土砂の堆積がなかったことからも裏付けられ、結局、土面川は安定した渓床であったといえるのである。

(三) 本件土石流の流下及び土砂、流水の流下について

(1) 前述のようにして発生した土石流によって多量の土砂石の流送があった区間は、最上流のA崩壊地からA支流を経て本流を通る約4.6キロメートルの一本の筋であり、他の支流からの土砂の流出は水に浮く細粒子を除きほとんどなかったとみられる。

A支流においては渓床堆積物は局所的に凹部に堆積しているのみでほとんど流送され、渓床母岩は裸出し損摩されており、またA支流と本流との合流点から国有林と民有林との境界付近(土面川河口から約二三〇〇メートル)の区間においては、渓床が洗掘されているが、これは、A支流で発生した土石流のエネルギーによって洗掘されたとみられる。A支流から多量の土砂石が流出した原因は、地質的原因に基づいて永年(数十年以上)にわたって支流に堆積していた土砂石が、本件災害時の長期間に及ぶ多量の降雨により、土砂石の空隙が雨水で飽和状態になっていたためであり、昭和三〇年代から四〇年代にかけての森林伐採とはほとんど関係のないものである。このことは、現に当地を踏査した結果では、伐採前に発生したと認められる古い崩壊の残留土が残されていることからもいえるのである。

(2) しかし、この土石流は、土面川河口からほぼ二三〇〇(別紙図面2、3のC地点)ないし一三〇〇メートルの区間の緩傾斜地において、そのエネルギーを次第に消失し、そのフロント部は解体され土砂石を渓床に堆積しつつ消滅した。この土砂石は後続の洪水により乱され、その一部は掃流力により流下したものと推定されるが、下流にはこの土石流で運ばれたとみられる大径石等は認められないことから、土石流がこの地点で消滅したことは疑いない。

(3) 土面川河口からほぼ一三〇〇ないし六〇〇メートルの区間では、旧押出し堆積の両岸の洗掘が行われ、流水の掃流力によって河道浸食が起こり、土砂が洗掘あるいは堆積を繰り返しながら流送されたため、土砂の流送が激しかったと推定される。その下流の土面川河口からほぼ五〇〇ないし二〇〇メートルの区間では、流下水により両岸の洗掘が行われたと推定される。つまり、土面川河口から一三〇〇メートルより下流区間においては、完全に流水の掃流力による土砂の移動であったと判断される。

(4) 河口における土砂の流送

河口付近において土砂が堆積した状況及びその原因については、前に述べたとおりである。土面川下流帯の渓床石礫には、必ずしも大径石の存在は認められない。中流部の両岸帯には大径石の露出した状況がみられるが、これは古い押出し堆積が再浸食されて現われたもので今回の増水で移動流下したとの判断は成り立たない。また、土面川河口の土面橋が破壊されていなかったことからも土石流状で流下したとは考えられない。

(四) まとめ

以上によると、本件土石流の発生には、A支流上部のA崩壊が一因となっていると考えられるが、右崩壊は、異常豪雨とA崩壊地の地質構造によるものであること、本件災害時に発生したと思われるその余の山腹崩壊については、これによって流出した土砂石は本件土石流並びに下流に流下した土砂石の主体になっていないこと、本件土石流は、土面川中流域で消滅し、消滅後の土砂石の流下は、豪雨による流量増加にともない搬送されたものであることから、結局、本件災害は、異常豪雨による河川の氾濫によるもので、いかなる意味においても本件土石流とは関係がないものである。

5  森林施業等について

以上詳述した点から、本件災害が森林伐採とは何ら関係がないことが明らかであるが、なお、被控訴人の行ってきた屋久島における国有林の管理経営、本件地域における伐採事業、集材方法及び枝条(枝葉)処理、並びに、森林の流量調節機能等について付言する。

(一) 屋久島における国有林の管理経営

屋久島の約九七パーセント(約四万八五〇〇ヘクタール)は森林原野であるが、そのうちの約七九パーセント(約三万八五〇〇ヘクタール)が国有林であり、国有林を取り巻くように民有林(約一万ヘクタール)がある。国は、大正一〇年、森林経営を進めるに当たって、地元住民のそれまでの入会利用等をも考慮して、民政安定、生計の維持向上等地域の発展に資するため、旧農商務省山林局長通謀により「屋久島国有林経営の大綱」(以下「大綱」という。)を定めた。大綱の主要な内容は、(1) 前岳地域の国有林については、そのうちの約七〇〇〇ヘクタールについて委託林(のちに「共用林野」となる。)を設定した、地元住民に自家用の薪炭材を譲渡するほか、稼業用としても必要な薪炭材を特売することにより生業の便宜を図り、ゆくゆくはその一部に部分林(国有林に地区住民が造林し、その収益を造林者と国が分収する制度)を設定するとともに、開墾に適する箇所は貸付けを行うこと、(2) 奥岳地域については、この地域で国が丸太の生産及び跡地の造林を行う場合には、できる限り地元住民に就業の場を提供すること、(3) 屋久島で最も不便を託っている道路については、地元住民の便宜を考慮して国においてこれを施設するほか、島の周辺道路の開発についても考慮することというものであった。このように、屋久島の国有林とりわけ委託林を含む前岳地域の国有林は、地元住民の生活と福祉の向上を図ることを目的として管理経営することになり、現在もこの方針を基として管理経営している。屋久島国有林の屋久杉天然林は、大正一三年に国の天然記念物に指定されることとなり、昭和三九年には霧島屋久国立公園として約一万八三〇〇ヘクタール(国有林の四八パーセント)が指定され、厚生省との協議を経て特に伐採を禁止し保護すべき区域を約六一〇〇ヘクタール(国有林の一六パーセント)に拡大することとなった。また、昭和四四年には更に学術参考保護林等として約一六八八ヘクタールを加えるとともに、昭和五〇年には約一二一九ヘクタールを原生自然環境保全地域に指定したことにより、本件災害発生当時の昭和五四年時点では、約七九〇〇ヘクタール(国有林の二一パーセント)が特別に禁伐区域として保護されている。このほかにも奥岳地域を主体として、自然環境の保全及び国土の保全等のため択伐等により施業を規制している区域が約一万五三〇〇ヘクタールあり、屋久島の国有林において何らかの形で施業を規制している区域は、合わせて約二万三二〇〇ヘクタール(国有林面積の約六〇パーセント)にも及んでいる。

(二) 五八及び五九林班の森林施業について

前記のとおり、国は、大正一〇年に大綱を定め、前岳部分の国有林に約七〇〇〇ヘクタールの委託林を設定したが、永田地区においては三〇九戸の総代人柴喜三右衛門により大正一二年一二月二三日付けで鹿児島大林区署長((現)熊本営林局長)に委託願いが出され、大正一三年八月一三日永田地区出願人総代柴喜三右衛門と鹿児島大林区署長との間で請書がとりかわされて委託林が設定された。その区域は字平瀬国有林五六・五七・五八・六〇・七三並びに一〇及び一一林班の一部であり、面積は九五六町八反八畝歩であった。また、この地域の蓄積は七二万一一九七石であった。契約期間は大正一三年八月から五箇年間であるが、以後共用林野になるまでは五年おきに更新されていた。

その後、五八林班を含む委託林は昭和二七年からは共用林野と名称が変ったが、現在も「共用林野設定契約書」を五年毎に更新して委託林の方針を引き継ぎ管理経営している。昭和三五年までは前述の委託林に準じた取扱いを行って来ており、伐採した跡地は天然更新を繰り返すことにより、再度地元共用林組合の薪炭材の供給林としていた。

五八林班約二二二ヘクタールについては昭和一八年から同二六年の間に四回にわたり、約三六ヘクタールを伐採し、跡地は天然更新し再度薪炭共用林野としていた。

昭和三六年からは、薪炭材としての広葉樹の需要が急速に減少したことから、地元住民からも、伐採跡地を従来のように広葉樹を天然更新する経営方法を改め、収益が高く就労の場も拡大できる人工造林方式に転換すべきであるという強い要望があり、伐採跡地に部分林を設定することに変更した。このことはまた、木材需要の激増と我が国の森林資源の充実をはかる国の政策にもかなった当を得た更新方法の変換であった。このため共用林組合を主体として、上屋久町、屋久町及び鹿児島県により社団法人屋久島林業開発公社が設立された。本林班においては、右公社と熊本営林局長との間に部分林を設定するために、昭和三五年から昭和五二年までの間に伐採した面積は約一七四ヘクタールである。その跡地に造林した杉の生育もよく、地元住民の基本財産として着々とその成果をあげつくつある。部分林については右公社並びに地元住民にとって非常に有利な契約内容になっている。なお一伐区の平均面積は約一二ヘクタールである。残り約四八ヘクタールは天然林であり、内約一六ヘクタールは保護樹帯である。また、昭和五三年以降は伐採していない。

五九林班の面積は約一四三ヘクタールであり、地形・林況などから木材の生産を主目的とする普通林地として管理経営している。すなわち、昭和四四年に伐採を始め昭和四八年までの五年間に約四三ヘクタールを伐採し、このうちの約三二ヘクタールが人工造林地になっている。したがって、本林班の伐採は五八林班に接する下流部分の伐採に留めており上方の約一〇〇ヘクタール(林地面積の約七〇パーセント)は天然林として残っているだけでなく、渓流並びに主要な稜線には保護樹帯を設置している。なお、一伐区の平均面積は約一一ヘクタールである。

五八林班の共用林野の立木は、昭和三五年以降は永田共用林組合と上屋久営林署長との間で締結している共用林野設定契約に基づき、永田共用林組合からの買受申請により、上屋久営林署長が永田共用林組合に直接払い下げていたものである。五九林班の立木は、地元産業を育成する目的もあり、鹿児島林産と上屋久営林署長との売買契約によって立木のまま販売をしていたものである。なお、昭和四九年以降は販売していない。

(三) 集材方法と枝条処理

伐採された立木は、機械集材装置(エンドレススタイラー式集材装置)により空中に架設されたスカイライン(主索)を走行するキヤレジ(搬器)に吊り下げられて林道近くの土場まで運び出されるが、A崩壊地を含む地域で伐採した木材は、伐採地点からスカイラインによってA崩壊地下方右岸の稜線に設けた中継土場を経て、そこから次のキヤレジに掛けかえて土場まで搬出していた。右の集材方法によると、木材と山地との接触面をできるだけ少なくするように措置されているので、これが地表面を攪乱することは極めて少ないものである。

さらに、右搬出の際、大径木は集材装置の荷重の限度内に納めるため伐採地点で一定の長さに切り、中小径木はそのまま運び出したが、枝条は、搬出の支障とならないものはそのままで、支障となりしかも利用できる径級に達しないもののみを現場に残置した。そして、現場に残置したものは、その後の造林のため地面に安定するよう整理した。また、中継土場においては、木材を掛けかえるのに支障となるものだけを切り落とし、そのほかは、土場まで搬出した。したがって、伐採現場に残置した枝条がA支流まで落下することはほとんど考えられず、中継土場で枝払いした枝条も極めて少量であるから、これが中継土場から相当な距離のあるA支流まで落下して堆積することはおよそ考えられない。

控訴人らは、枝条がダムアップ現象を起こさせたと主張するが、A支流に右の現象が生じたとの痕跡は全くないのである。

(四) 森林の流量調節機能と森林の伐採

森林が洪水のピーク流量を調節し平水時の流量を増大させることは一般によく知られている。この機能は林地の土壌が多孔質であることに負うところが大きいためであり、したがって、森林と森林以外の状況の地域との差は大きい。しかし、この機能においては天然林と人工林との差、また幼齢林と老齢林との差は僅かである。特に豪雨時には、林木の樹冠の保留能及び土壌の貯留能を降雨量が大きく上回るため、林相・樹種・林齢などによる差はもちろん、流域の状態による洪水のピーク流量の差も小さくなる。土面川流域においては後述するような伐採をしたが、その面積は大して広くないうえ、伐採跡地の土壌は荒廃することなく杉の人工林を造成しあるいは天然更新をし、本件災害時には大部分が十数年を経過して一応樹冠の形成が得られていたのであるから、天然林を伐採したことが本件災害時の洪水流量を災害が起こるほど増加させたとは考えられない。このことは上流域の天然林を伐採していなかった永田川においてさえ河川が氾濫していることからも明らかである。もともと、五八及び五九林班の伐採地を未伐採のままに残しておいたとして得られる流量調節の量と土面川下流の河道断面積とを対比すれば、前者はごくわずかであり、下流の洪水に影響を及ぼすようなものではないのである。

結局、本件洪水は林相・林齢の如何にかかわらず、また伐採の有無とは無関係に発生したものである。

6  治山ダムについて(控訴人らの国家賠償法二条の主張について)

(一) 治山ダムの設置及び管理は、治山事業の一環として行うものであるところ、治山事業とは、荒廃山地又は荒廃が進行中の山地を植栽等の造林や治山ダム等の設置によって復旧整備し、より充実した森林の造成を図り、森林のもつ保水機能や防災機能を充実させることにより、山地及び下流を保全することを目的として実施する事業である。そして、国有林では、治山治水緊急措置法(昭和三五年三月三一日法律第二一号)により計画的に治山事業を実施し、土面川流域においても国有林内の渓床に三基の治山ダム設置を計画し、そのうち一基を昭和四六年に設置したが、本件災害までには小面積の浅層崩壊しかなく、右治山ダムに土砂石の堆積はほとんどなかったことから、渓流の荒廃はみられなかったので、あとの二基については未だ設置の必要性は認められなかった。

(二) ところで、土石流は、前記のとおり雨量等の誘因や、地質及び地形等の素因が複雑に影響しあって発生するものであるが、これら誘因や素因は、場所によってそれぞれ異なり、また、その流下及び停止等も種々の要因によって一様ではなく、現在の科学技術水準においても十分な解明はなされていない。

そしてこれに加え、わが国の国土は、押しなべて脆弱な地質、急峻な地形からなっており、河川は各所に土砂災害や洪水氾濫という危険性を内包しているのであって、かかる条件下で災害以前に土石流の発生を具体的かつ的確に予測することは、現実問題として極めて困難である。さらに、土石流の発生及び流下をダムによって防止することが有効・適切か、どの地点にどの程度のダムを設置すればよいか等については、今後試行錯誤を繰り返しながら研究を進めていかなければならない問題であって、土石流の発生の予測以上に困難な問題といわなければならない。

(三) 以上のとおり、治山ダムの設置は、前記治山事業の目的を主眼として、渓床の安定及び山脚の固定をすることにより、不安定土砂の移動あるいは山腹崩壊の防止を図るために設置するものであって、発生を予知することが通常困難な土石流までを想定して設置するものではなく、その強度も、右のような予測も結果回避も困難な土石流の流下を食い止め得るほどのものとして設置されてはいない。また、土面川は、前記のとおり治山ダムに土砂の堆積はなく、本件災害以前は比較的安定した小河川であったのであって、土石流の発生はおよそ予測不可能であった。

したがって、被控訴人に、本件土石流を防止するに足りる治山ダムを設置すべき義務がないことはもとより、前記治山ダムが本件土石流を防止し得なかったことは、何ら公の営造物の設置及び管理の瑕疵あるいは河川管理の瑕疵に該当するものではない。

四  被控訴人の主張に対する控訴人らの反論

1  被控訴人主張の異常豪雨について

本件災害発生当時、屋久島地方は、本件台風の通過に伴う豪雨に襲われつつあったが、土面川流域に限って局地的な異常豪雨が降ったと推認するに足りる資料は存しない。

すなわち、被控訴人の主張は、山口伊佐夫作成の屋久島土面川における洪水・土砂災害の解析(<書証番号略>、以下「山口解析」という。)を根拠とするものである。しかし、降雨の多寡は、水蒸気、風向、地形の三つの要素に大きく影響されるところ、山口解析は、本件災害時の土面川流域の降雨量の推定について、標高と降雨量の増加の関係のみをことさら強調しているのであって、地形と風向の二つの要素を無視しているもので経験則に反するものである。

また、鹿児島県が屋久島における降雨分布について調査した結果に基づく屋久島水文調査報告書(以下「水文報告」という。)が存するところ、右水文報告は、風向と地形の要素が降雨量に及ぼす影響を図示している。そして、本件災害時の風向は、二六日から二八日までが東北東、二九日が東南東であるから、この風向に近い場合の降雨分布図によると、多雨地帯は、小杉谷流域に集中し、その風背斜面となる本件地域では、その半分程度の雨量になるに過ぎない。なお、本件災害の前の四日間の風向は、右のとおり主として東寄りの風であるところ、永田中学における観測結果によると、いずれも北西とされているが、これは屋久島のような円形の島の海岸地帯にみられる特徴であって、通称「イエン風」と呼ばれる海岸地区に特有なものであり、山岳部の降雨に影響を与える主風の方向とは無関係である。

右のとおり、土面川における降雨量について、水文報告及び経験則に反する山口解析は全く信用性がなく、本件地域に異常な豪雨があったとの証拠はないものである。

2  土面川、永田川の流量の推定について

右各流量の推定について、山口解析は、土面川及び永田川流域で小杉谷流域と同等又はそれ以上の豪雨があり、かつ、小杉谷流域と全く同一の時間的経過で降ったものと仮定して右流量を推測している。しかも、右推測では、永田川と土面川の最大流量の出現時刻まで一致させている。

しかし、そもそも小杉谷観測所のデータを使って本件地域の降雨量を推測することはそれ自体不正確であるし、本件災害時における本件地域の雨量が、時間的にも量的にも同観測所のそれと完全に一致するなどと推測することは、到底できないというべきである。

しかも、前記のとおり、水文報告によると、本件災害当時、土面川流域の降雨量は、同観測所のそれよりはるかに少ないと推測されるのである。なお、被控訴人が本件災害後に土面川流域に設置した雨量計による観測結果においても、本件当時の同観測所のハイエトグラフと類似性のあるものは認められない。

右のとおり、小杉谷流域と本件地域とのハイエトグラフの類似性が否定される以上、これを基礎としたハイドログラフも否定されるべきものであるが、さらに山口解析が流量算定に用いた小杉谷流域、土面川流域、永田川流域の水文解析要素は著しく恣意的でまったく非常識といわなければならない。

以上要するに、山口解析における土面川、永田川の流量の算定は、主観的ないし恣意的であって、合理性を欠くものである。

3  被控訴人の山腹崩壊に関する主張について

(一) 被控訴人は、山口解析に従って崩壊の種類を分類し、これにより林木根系の土壌緊縛力の限度を決する基準とするが、右のような分類は、現実的には崩壊の種類を判別することができないものというべきであり、当審における鑑定人平田登基男の所見に照らしても、根拠がないというべきである。

(二) A崩壊地の地形、地質等について

被控訴人は、本件崩壊源付近では、花崗岩の風化、破砕が数千年の周期で進行し、これに粘土鉱物が混入し、さらに、地下滞水層の存在と本件異常豪雨により間隙水圧の上昇により断続崩壊が起こったと主張する。

しかし、粘土鉱物の生成も滞水層の出現も最近のことではなく、異常豪雨も数千年の間には数えきれないほど襲来したはずであるのに、山地が森林で覆われていた時代には何の変化もなく安定していた山腹が、森林が伐り払われ、その伐根による土壌緊縛力が最小となる時期に突如集中して崩壊しているのであって、これを被控訴人ら主張の地質的な輪廻ということで説明することは到底できない。

さらに、粘土鉱物の存在については、山口解析において、粘土鉱物が崩壊を惹起するに足りるだけの量をもって存在していることを裏付けるものはないし、また、滞水層の存在についても、電気探査による調査であって、推測の域を出ないものである。

(三) 本件地域における崩壊の個数と面積及び時期に関する主張について

被控訴人は、山口解析に基づき、本件災害時に、非伐採区でも一〇個の崩壊があり、この個数と面積から伐採区における一〇二個の崩壊のうち伐採と関係のない崩壊を推算して主張する。

しかしながら、右非伐採区の崩壊の個数等は、林業土木コンサルタント熊本支所による現地踏査の結果を基礎とするものであるが、右調査は、山口解析の結果に符合させるため、沢や谷の崩壊とは認め難いものを崩壊と判断したり、崩壊面積を意図的に操作するなど大きな作為があり、証拠価値はないものである。しかし、これをさしおいても、右の非伐採区(有林地)における崩壊を直ちに伐採と関係のない崩壊、あるいは、地質的要因のみによる崩壊と結論づける根拠はないものというべきである。すなわち、右有林地は、天然林だけに限定されず、伐採跡の人工造林地も含まれており、人工造林地、特に杉の幼齢林地の場合が最も崩壊が起こり易いことは常識というべきであり、また、前記鑑定人の所見によると、非伐採区にみられる崩壊の原因は、降雨と強風だけを挙げており、地質的要因のみによるとはされていない。

また、山口解析は、右崩壊がすべて本件災害時に発生したものとしているが、右調査は、本件災害から満四年を経てなされたもので、その間崩壊をもたらす程度の降雨はなんども発生しているのであって、右崩壊がすべて本件災害時に生じたとはいえない。

そうすると、前記のとおり、被控訴人主張の深層崩壊及び浅層崩壊の分類が合理的といえないことを合わせ考えると、伐採区における一〇二個の崩壊のうち、伐採に関係する崩壊が八〇個で、伐採と無関係な崩壊が二二個などという被控訴人の主張は、何ら根拠がないというべきである。

(四) 土石流発生の予見可能性について

被控訴人は、土石流は特定の地質地帯に発生する蓋然性が高いとはいえ、これをあらかじめ予見することは非常に困難であると主張するが、本件は、山地一般について、どの地域に何時ごろ土石流が起こるかという問題ではない。本件地域は、崩壊を起こし易い風化花崗岩に覆われた地質地帯であり、これに広域全面皆伐、機械集材、林道開さくなどの人為的な要因が加えられているのであって、かかる特殊な山地での予見の問題である。したがって、立木伐採に従事する者や右の自然と日々接する付近住民のみならず、上屋久営林署の職員においても当然に予見可能なものである。

4  被控訴人の土石流の流下に関する主張及び本件災害が洪水によるものであるとの点について

(一) A支流における不安定堆積物の堆積原因について

本件土石流は、土面川渓床に堆積していた不安定堆積物が重大な要因となっているところ、被控訴人は、A支流の両岸は、伐採前から断崖をなしており、そのために長年にわたって断崖上から崖落し続けていた土砂石が堆積していたと主張する。

しかし、伐採当日、A支流はどこからでも渡れるV字型の谷であり、本件土石流の通過によって現況のように削り取られてU字型の谷になったものである。しかし、仮に伐採前から断崖となっていたとしても、当時は、同渓床には大きな樹木が繁茂し、安定していた。しかるに、右渓床林まで伐採したため渓床の堆積を不安定なものとしたのであり、また、皆伐を原因として崩落した土砂石の量は、被控訴人主張の伐採と無関係な崩落の量の比ではなかったと推認され、A支流の不安定堆積物は、いずれにしても伐採に起因するものである。

(二) 控訴人らは、本件災害が土石流そのものによるものであると主張するものではないので、本件土石流が、中流域で消滅したか否かを判断することがあまり意味のないことは、請求原因で述べたとおりである。

しかし、被控訴人らの主張を前提にしても、少なくとも本件土石流の大部分は中流域に堆積したが、一部は河口まで達し、永田川本流を塞いで堆積したことは認められる。そして、控訴人らの被災経過によると、土面川河口に近い人家は、水と流木と土砂石に襲われ、しかも右襲来は、轟音を伴う極めて急激なものであり、また、水の引き方も早かった。このような、轟音を伴い上流方向に向かって激しい流れが生じ、また、水の襲来が短時間であったことは、被控訴人が主張するような土面川の氾濫、あるいは、背水現象では説明できず、要するに土石流によるものというに妨げない。

また、河口付近に堆積し、土面川の疎通能力を失わせた土砂石は、すべて伐採を原因とする崩壊土砂によってもたらされたものであるから、本件災害が河川の氾濫によるものであるとしても、被控訴人の責任は免れないというべきである。

なお、本件においては未改修河川の管理の未整備の責任を追及するものではない。林地と裸地の洪水量の比は一対一五〇という驚くべき比率であり、かかる河川の上流の緑のダムを破壊した行為の責任を問うものである。

5  まとめ

以上要するに、山地崩壊及び土石流の発生並びにその流下に関する控訴人らの主張を要約すると、次のとおりである。

(一) 本件地域の伐採跡地に、本件災害前後の短期間に大規模な山腹崩壊が発生したのは、それより前約一〇年間に行われた広域伐採が原因である。すなわち、伐採後の根系の腐触が進行し、山腹のせん断抵抗力が最も弱まる時期に達していたので、豪雨の度に崩壊が続発し、本件災害当時、その崩壊個数は一〇二個という多数に達していた。

(二) 伐採方法が広域皆伐方式であり、拡大を阻止する立木、保護樹帯などが全く残されていなかったため、いったん発生した崩壊は大規模なものとなった。したがって、仮に崩壊の直接の原因が、地質的要因によるものであったとしても、その規模を拡大させた原因は、皆伐という伐採方法にある。

(三) 特に、大きな規模の崩壊をもたらした箇所は、集材施設の設置された付近でワィヤーが張られた集材ルートに沿った場所であり、これは、伐採方法だけでなく、伐採に伴う集材方法が不適切であったことを示している。なお、この点は、前記鑑定人平田もこれを認めている。

(四) 崩壊によって生じた土砂石が、本件流域の渓流に落ち込んで、土石流の発生、発展、大規模化の原因となったのは、渓流沿いに保護樹帯が残されていなかったばかりか、渓床林まで伐り払われたことから、渓流に不安定堆積物が堆積していたことによる。

以上の結果、本件災害時の降雨は、屋久島においてはごく通常の雨量の程度に過ぎなかったにもかかわらず、土石流が発生して本件災害を惹起させるに至ったものである。

第三  証拠の関係<省略>

理由

一控訴人らの地位等(請求原因1)について

請求原因1の事実のうち、前段(控訴人らの地位)については、<書証番号略>、原審における証人岩川幸恵、同柴久美子の各証言及び控訴人ら(ただし、亡岩川ウイ、控訴人日髙才次、同柴八代志、亡岩川セツ、控訴人岩川富儀、同村田万里子、同岩川信夫を除く。)各本人尋問の結果によりこれを認めることができ、その余の事実(永田地区の地形)は当事者間に争いがない。

二本件災害の発生(請求原因2)について

請求原因2の事実のうち、昭和五四年九月二九日から同月三〇日にかけて本件台風が屋久島地方に接近したこと、永田地区において、控訴人ら主張の家屋の全壊(流失の点を除く。)、半壊あるいは床上、床下浸水等の本件災害が発生したことは当事者間に争いがない。

三本件災害発生の原因(一)、特にA崩壊の原因と森林伐採との関係について

控訴人らは、本件災害は、土面川上流域の山林で山腹崩壊が発生し、これが土面川に流れ込み河川渓底の不安定堆積物を巻き込んで土石流となったか(本件災害発生の原因(一))、又は、いったん途中に堆積した後ダムアップ現象を起こして決壊したか(本件災害発生の原因(二))のいずれかにより右土石流が土面川河口付近にまで流下して、控訴人ら同河川沿いの住居を直撃した、あるいは、土石流が直撃したものでないとしても、右の土石流により流送された土砂石等が土面川及び永田川河口を塞いだため、土砂を含んだ濁流が溢れて津波のように住居を襲ったこと(本件災害発生の原因(三))により発生したものである旨、そして、右土石流の引き金となった山腹崩壊とこれに巻き込まれた河川渓底の不安定堆積物は、被控訴人の施業に係る森林の伐採事業に起因するものである旨主張する。

ところで、請求原因3(二)のうち、A崩壊地が崩壊し、それ(A崩壊)が引き金となって土面川上流域に本件土石流が発生したこと、同5のうち、(一)(1)(屋久島山岳地の特殊性)の事実、同(2)のうち、A崩壊地が控訴人らの主張の位置に位置していること及び崩壊面積は、当事者間に争いがない。

そこで、以下、土石流とその発生形態及び原因、発生した土石流の流下、停止、予防等の一般論的分析、その原因となる山腹崩壊の分類等、さらに本件災害時の土面川流域における山腹崩壊の素因としての地形・地質、並びに誘因としての降雨、とりわけA崩壊の原因と森林伐採との関係について順次検討する。

1  土石流とその発生形態及び原因等について

<書証番号略>(以下「国土研報告」という。)、<書証番号略>(山口解析の一部)、原審証人木村春彦、同山口伊佐夫(以下「山口証言」という。)、当審証人平田登基男(以下、「平田証言」という。)の各証言によると、次のとおり認められる。

(一)  土石流について

土石流とは、水分をたっぷり含んでかゆ状になった土砂が大径石を含むフロントを形成して段波状に流れ下る現象であり、地滑りや山崩れがブロック状の塊として崩れ落ちるのと異なり、帯状に河床に沿って流下することをいう。なお、流水が土砂石等を流下させる形式には、いわゆる掃流力理論(ニュートン流動、すなわち清水が物を押し流す流動形態により河川の流水が河床の土砂等を各個に押し流す形態を解明する理論)で説明される「各個運搬」と、ビンダム流動やダイラタント流動(泥流や土砂石等粘性をもった集合物等が流下する形態の流動)によって説明するのが適当な「集合運搬」があるといわれ、土石流は先頭に大径石を含むフロントを形成し、その後に大小さまざまな大量の土砂石と水の混合物がそれ自体の重力の作用で一体となって流下するものであるから、ダイラタント流動によって分析、説明するのが適当であるといわれる。そして、土石流の引き金的原因となるのは山腹の崩壊であるが、山腹崩壊については、素因としての地質及び地形的条件、誘因として降雨、風、地震等があり、これらの条件が重なり合って山腹の崩壊を発生させることになる。

(二)  土石流の分類

土石流の発生を地質及び地形的特徴又は原因からみた場合、一般的に次の三つに分類されている。

(1) 粘土鉱物生成地帯の土石流

長野県姫川支流浦川等にみられたもので、主として破砕帯、新しい海成粘土地帯、温泉余土、変朽安山岩地帯に発生するが、これらの地帯には粘土鉱物が生成され、粘土鉱物の吸水性、吸水膨張圧の発生等によって泥状化し易い特性があり、降雨等の刺激によって土石流が誘発されることがある。地下水との関連もあり、常に水分で飽和した土層を保有する場合が多く、必ずしも大降雨時に発生するとは限らない。

(2) 火山性堆積物からの土石流

富士大沢崩れ、男体山、桜島等にみられたもので、土粒子の見かけの比重が小さく空隙率の大きな堆積層等においては間隙水圧の上昇に伴って急激に摩擦係数が低下し、クイックサンド現象を発生して土石流を誘発する。

(3) 風化細粒土の堆積からの土石流

花崗岩の風化帯にみられるもので、堆積の空隙率が主な原因となるが、花崗岩類の風化砂土の堆積の場合、必ずしも緻密な堆砂構造を示さない場合が多いので間隙率の大きな堆積となり、長期的降雨により間隙水圧が異常に上昇し、急激に摩擦係数が低下してクイックサンド現象を発生し、土石流の引き金となる。これは急勾配渓床の渓床堆積内部から誘発される場合もあり、渓床堆積条件さえ満たしておれば、山腹の小崩壊発生によっても誘発されるが、特に降雨の継続時間が長く、最的にも多い場合に発生する。

(三)  土石流の流下、停止等

また、土石流の発生を地形的要因からみると、概して一五ないし二〇度以上の勾配地帯を発生源とし、一〇ないし一五度の地帯を流下し、一二度以下の地帯が停止地帯となっているといわれ、勾配の変換点では上流勾配と下流勾配の比が0.5ないし0.7以下の場合や、渓床幅の変化度合が二倍以上になった箇所で停止、堆積している事例がある。なお、土石流の衝撃力は、同じ水深の清水圧の五ないし七倍のものがあるといわれ、その流下速度は、波速で秒速一〇ないし一九メートルの値を示す。

(四)  土石流の予見、防止

以上のように、土石流は、特定の地質、地形を有する地帯に発生する蓋然性が高いが、これを予め予見することは非常に困難であり、せいぜい技術研究員による精密調査を経て数十年単位の幅をもった将来における発生を予想し得るに過ぎず、その予防も治山ダムや砂防ダムの設置等により、ある程度被害を軽減させることは可能であるが、土石流の巨大なエネルギー考慮すると、その防止は完全なものではなく、鋼製のダムの設置等が実験的になされるなど試行錯誤の状態にある。

(五)  山腹崩壊及びその分類等について

山腹崩壊は、土石流発生の引き金的要因となるものであり、その素因として地質及び地形が重要な影響をもたらすものであるが、屋久島は、風化花崗岩類地帯にあたり、島周辺部を除き概ね花崗岩から成るが、このような地質地帯における山腹崩壊について、その態様、原因からみて、前記証人山口伊佐夫は、山口解析において次のとおり分類している。

(1) 浅層崩壊(表層崩壊)

山腹斜面の花崗岩類母岩の表層部が化学的に変化してくると、降雨によってその風化表層部に疑似的滞水層が形成され、クイックサンド現象により発生する崩壊であるが、この崩壊は、二〇〇ないし二五〇ミリ程度の降雨により比較的容易に発生し、規模も深さ0.2ないし0.5メートル程度で小面積の範囲内にとどまる。

また、このような岩質条件の箇所は、地表面が裸出すれば表面浸食が旺盛に進み、浅層崩壊が発生するに至るが、森林によって被覆されれば表面浸食はほとんど防止され、浅層崩壊も軽減される。

右のように、山地に育成された森林が伐採されても、直ちに造林され、表土層が健全なうちに地被植生が侵入すればほとんど表面浸食は発生しないが、伐採後五ないし一〇年程度経過すると、旧根系の腐食、新造林木の根系の未発達等の状況により、たまたま豪雨等が来襲すれば浅層崩壊が発生することがある。なお、浅層崩壊に対する根系の抵抗力は、萌芽することなく腐朽した場合、一般に広葉樹では伐採時の初期強度に対して五年経過でほぼ四分の一、一〇年経過でほとんど零の値となり、杉等では、伐採後一〇年経過でほぼ二分の一弱、二〇年経過でほぼ一〇分の一の値に低下する結果が得られている。

(2) 深層崩壊

花崗岩類の風化細粒土が物理的に移動し、山腹斜面あるいは凹地形部に厚く一メートル以上堆積しているような箇所において、かなりの豪雨により滞水層が肥大し、間隙水圧が異常に上昇して深層から崩壊する現象であり、これは降雨が長時間継続して、量的に三〇〇ミリ以上に達した場合に発生する。この崩壊は、深層からの崩壊であるので林木根系の抵抗力の効果はあまり期待できない。

なお、この崩壊は、地形的な要因特に渓床堆積の状況とも関連して、土石流発生の引き金となることがある。

(3) 断層、破砕崩壊

花崗岩類が動力的な圧力を受け、節理が発達し、しかもその節理に沿って化学的に風化変質している場合、また局所的に破砕作用を受けている場合、豪雨によって深層から崩壊する現象であり、形状的には小規模のものもあるが、かなりの深層から崩壊する場合もあり、このような場合えてして土石流の引き金となる。右のような岩は、化学的風化部と硬岩部が局所的に複合しており、崩壊と同時に大径石も細粒土もともに崩落土砂として落下するので、林木による崩壊に対する抵抗力はあまり期待できない。

以上に対して、控訴人らは、山口解析が、山腹崩壊を浅層及び深層崩壊、節理崩壊に分類し、これでもって林木根系の土壌緊縛力、崩壊に対する抵抗力の限度を決しようとするが、右分類では現実的に崩壊を判別することが困難であって、合理的でない旨主張する。

ところで、前記証人平田は、山腹崩壊の種類、態様について、その観点の相違により、土質学会においては、表層滑落型崩壊あるいは表層すべり崩壊、岩盤崩壊(節理崩壊に対応するものと考えられる。)、崖崩れとか大規模崩壊等に分類し、砂防学会では浅層崩壊、深層崩壊等に分類するとされ、さらに、同証人は、用語上、表層すべり、深層すべり等の言葉を使用し、風化した花崗岩のまさ土が堆積して数メートルになり、これが降雨等の影響により崩壊するのを表層すべり、さらに、右まさ土が数年を経て斜面の下部に堆積し、その層が一〇メートルに達するなど非常に厚くなり、これが崩壊するのを深層すべりとして分類し、山口解析の浅層崩壊が表層すべりに、深層崩壊が深層すべりに大体一致すると考えてよい旨、さらに、山口解析が崩壊に対する水の作用について、地表面から浸透した降雨のため風化表層部が崩壊するのが浅層崩壊、厚く堆積した風化細粒土に対し地下水の作用により滞水層が肥大化し間隙水圧の上昇により崩壊するのが深層崩壊とする点について、同証人は、地表面から浸透した水が中間水としてであれ、地下水としてであれ、いずれにしても崩壊に対し作用を及ぼすのであるから、水を地表面から浸透したものと地下水によるものとを区別すべきものとは認識していない旨、各証言する。

しかしながら、右平田証言から明らかなように、証人平田は、崩壊に作用する水を地表面からの浸透するものと地下水とに区別せず、降雨により風化した花崗岩まさ土が浅い表層面で崩壊するか、あるいは分厚く堆積することにより深層部分まで崩壊するかによって分類し、結局、浅いか深いかという深度で区別しているのである。そうすると、山口解析と平田証言による分類の違いは、要するに、崩壊に与える水の影響の仕方の把握、崩壊の深度の捉え方が異なるに過ぎないもので、いずれの分類もその観点、分析の相違に過ぎず、平田証言が山口解析の分類を不合理とするものとはいえない。

そして、後述のとおり崩壊の深さを測定等により把握することは可能というべきであるから、通常考えられる林木根系の深さを基礎として崩壊の深さとの関係により林木が崩壊に対していかなる抑止効果あるいは抵抗力を有するかを論ずることはなんら不合理とはいえない。なお、平田証言は、およそ深さ一〇メートル以上の崩壊を深層崩壊、深さ数メートルまでを表層すべりとして捉えるところ、通常林木根系の深さが一〇メートルあるいは数メートルにまで達するとは考えられないので、同証人のいう深層すべりの場合はもとより、表層すべりの場合にも崩壊に対し林木根系の影響等が及ばないものがあるものということができ、その範囲で山口解析のいう深層崩壊と、平田証言の表層すべりは重なり合う部分があるということができる。

2  本件地域の地質及び地形的要因

国土研報告、山口解析、<書証番号略>並びに弁論の全趣旨によると、次のとおり認められる。

(一)  屋久島の全体的地形

屋久島は、別紙図面5記載のとおり周囲九六キロメートル、総面積約五〇〇平方キロメートルのほぼ円形の島で、大部分が山岳からなり、中央部に九州最高峰の宮之浦岳(標高1935.3メートル)をはじめとする高山群が分布し、急峻な地形をなしているが、これは、気候が高温多湿であることから浸食作用が活発であることや、節理系の発達によるものと思われる。

その地質は、永田地区を除き、周囲が古第三系熊毛群から成っている以外大部分が屋久島花崗岩から成る。屋久島花崗岩(斑状黒雲母花崗閃緑岩)は、数センチメートルの正長石の巨晶を特徹的に含み、北西及び北東系の節理系が発達し、河川もこれに支配されており、空中写真からも二方向のリニアメントが認められる。

本件地域の地質も花崗岩であるが、土面川は四つの支渓からなり、その平面図及び縦断図は別紙2、3、4のとおりであり、A崩壊地などのその上流域山地の斜面はおよそ三〇度以上の急傾斜地となっている。

(二)  A崩壊地について

(1) 位置及び規模等

A崩壊地は、本件地域のうち営林署区分の五九林班ろ小班(その林班図は別紙図面2のとおり)を流れる土面川A支流の最上部で河口から約4.6キロメートルの地点にあり、標高は崩壊の下部付近が約九〇〇メートル、上部付近は約九五〇メートル以上の範囲に帯状にまたがっており、およそ三〇度位の斜面となっている。また、崩壊の面積は約一五〇〇平方メートル(うち堆積地面積は約四〇〇平方メートル)であり、崩壊地の実測と崩壊前の空中写真や地形図の等高線の状況等から崩壊前の地形を推測復元して判断すると、崩壊の深さは最大で約三メートル以上に達すると認められる。

なお、崩壊面積及び崩壊深度について、国土研報告及び原審証人下川悦郎の証言(以下「下川証言」という。)中には右認定と異なり、崩壊面積は約0.03へクタール、崩壊の深さは、深いところで約一メートル浅いところで約0.3メートルであるとの記載並びに供述部分がある。しかしながら、右国土研報告等においては、A崩壊地の規模について厳密に測定した形跡は窺えず、殊に深度については、崩壊前の現地を推測復元するなどの考察をせず、崩壊地の端の部分を計測した程度にとどまるものであって、右認定を左右するものとはいえない。

(2) 地質的特徴

A崩壊地の風化花崗岩は、風化の程度が特に甚だしく、崩壊地の源頭部付近の花崗岩はかなり破砕されている可能性があると認められる。また、粘土鉱物の呈色反応検査により、この土体にモンモリロナイト等の粘土鉱物の存在が確認された。なお、右粘土鉱物は、前記三1(二)(1)のとおり、含水し易く排水しにくいもので、含水すると膨張し、さらに練り返されることによって、せん断抵抗が極度に低下される性質があり、これらの土体が濁水とともに混合されていくと土石流発生の危険性がある。さらに、この付近には相当古いと認められる崩壊の残留土が確認されている。

(3) 地下構造

証人山口は、A崩壊地について電気探査測定を行った結果、A崩壊地の地下構造について、次のとおり判断している。

① A崩壊地について強調すべきことは、その地質が崩壊地中腹部の母岩露頭を境として、その上方部と下方部に二分されていることであり、したがって、地下水の賦存形態も極めて微妙で複雑な形になっている。また、花崗岩母岩の構造線によるずれが存在するものと判断され、したがって、崩壊地全域にわたって花崗岩母材が複雑に動力的影響を受け、局所的にかなり脆弱化された地区と認められ、さらに、この構造線を中心として裂か状の地下水圧が発生する可能性がある。

② 崩壊地下方部において、表層から約五ないし七メートル付近にかけて旧い崩壊の崩積土が崖錐状に堆積している。この崩積土は、かなり旧いもので当地点で過去に大規模の崩壊を発生したことを物語るものであるが、さらに深部からの地下水により深部は含水して低比抵抗体となり、上層部は高比抵抗体となっている。

③ 崩壊地中腹部の母岩露頭より上方部は、別の独立した滞水層を保有しており、これは崩壊前地表面から五ないし六メートル下方部に位置するが、さらに標高の高い位置まで伸びている。

(4) 土面川流域山地の崩壊特性

山口解析は、昭和五五年までに撮影された空中写真及び財団法人林業土木コンサルタント熊本支所(以下「土木コンサルタント」という。)の協力により現地を踏査した調査結果に基づき、土面川流域の国有林のうちの崩壊の個数、総面積について検討し、その結果、次のとおり判断している。

まず概況的にみると、土面川流域(四つの支渓)の全崩壊面積は、国有林の面積(約三六五へクタール)に対しては約0.7パーセント、民有林も含めた土面川全流域面積(約五〇〇へクタール)に対しては約0.5パーセントにあたり、これは、一般に花崗岩類の風化地帯の降雨による崩壊面積率は2.5ないし4.5パーセント程度の数値を示すことに対比して特記すべき数値ではない。これは、屋久島の山腹斜面が、豪雨来襲頻度が大きく恒常的に花崗岩の浅層崩壊が行われており、また、植生の侵入も早くて母岩そのものが豪雨に対してかなり免疫的状況にあるためと思われる。

次に、個別的にみると、昭和五四年九月に発生したと思われる崩壊は、伐採区(総面積約250.04へクタール)では一〇二個、面積合計二万一七〇七平方メートル(うち、森林伐採に影響された浅層崩壊八二個、一万三一九一平方メートル、地質的要因のみによる深層崩壊二〇個、八五一六平方メートル)、非伐採区(総面積約115.14へクタール)では一〇個、面積合計四三六七平方メートルと判断される。そして、右非伐採区における崩壊は、深層崩壊であって伐採と関係なく地質的要因によって発生したものであり、同様の崩壊は確率的にみて伐採区においても発生するものと認められるから、非伐採区における崩壊個数と面積比率から伐採区においても発生しうべき伐採と関係のない崩壊を堆算すると、崩壊個数約二二個、崩壊面積九四八三平方メートルとなり、この推算結果は、右現地踏査に基づく伐採区の浅層崩壊、深層崩壊の崩壊個数及び崩壊面積とほぼ一致するもので、伐採区における浅層崩壊と深層崩壊の分類及び個数の判断を裏付けるものである。

(5) A崩壊の原因

山口解析は、以上(1)ないし(4)により、A崩壊は、前記分類上の断層・破砕崩壊に属するもので、地形及び地質を素因とし、これに後記本件災害時の降雨を誘因として、地下滞水層に基づく間隙水圧が異常に上昇したことが直接的要因であるとみなすことができるが、さらに風化の進んだ土体を降雨時の異常間隙水圧によって崩壊せしめ、下方部の崩積土の一部を巻き込みながら崩落していった深層崩壊にも該当し、A崩壊は、地形、地質的素因が時系列的微変動遷移ステージ、いわゆる地質的輪廻に達していたことによる崩壊である旨、さらに、右の点からA崩壊は森林の伐採とは関係がない旨、推測判断している。

(三)  山口解析の判断の合理性について

そこで、右判断について検討するに、前記(1)ないし(4)の諸点及び後述の本件台風時の土面川流域の降雨量とを総合すると、山口解析の右判断は、相当としてこれを肯認することができるものというべきである。

ところで、控訴人らは、以上の諸点につき、まず、前記(2)の粘土鉱物が確認されたとの点及び(3)の地下滞水層の存在について、これを裏付けるに足りる証拠はない、あるいは推測に過ぎない旨主張するが、前掲各証拠によってそれぞれ右認定のとおり認めることができ、控訴人らの右主張は、具体性がないものであって、いずれも採用できない。

さらに、控訴人らは、山口解析の右(4)の崩壊特性について、その前提となる現地踏査の結果が極めて恣意的であり、何ら信用性がない、また、伐採地と非伐採地の崩壊の関係について不合理であり根拠がない、さらに、(5)の判断について、A崩壊地は、人工造林により土壌緊縛力が最も弱くなるときに符合して崩壊しているのであって、これを地形、地質的輪廻で説明することはできない等、各主張する。

よって検討するに、控訴人らが土木コンサルタントの現地踏査の結果が恣意的であるとの点については、前記証人池内の証言によると、前記<書証番号略>は、<書証番号略>に誤りがあり、これを修正したものであって、調査の結果に一部内容的変遷があること及び右池内証人の証言には一部不明確ともいうべき点のあることは認められる。しかし、右<書証番号略>及び池内証言は、全般的には十分措信できるものというべきで、一部の修正は、資料を整理し調査結果を集約する過程で発生したことが認められるし、その基本的原因は、崩壊地が多数であり、しかも屋久島の地形が複雑かつ急峻であるため、多数の崩壊地を逐一現地踏査することが極わめて困難であったこと等の事情に由来するものということができ、この点は、当審における鑑定人平田登基男の鑑定の結果(以下「平田鑑定」という。)及び平田証言においても、十分窺えるところである。そして、平田鑑定及び同証言によると、土木コンサルタントの指摘した非伐採区における一三個の崩壊地について、一部現地が急斜面である等のため確認ができなかった箇所はあるものの、概ねその崩壊を確認しているところである。

なお、控訴人らは、山口解析が右崩壊について旧崩壊と新崩壊とを区別していることにつき、右区別はできない旨主張し、平田鑑定においても、崩壊時期の特定は困難であるとしている。しかし、同鑑定人は、現地のみの検分からは崩壊の時期を判定することができないとしているのであって、山口解析は、現地踏査の結果に加え、昭和五五年度までに存する空中写真や、本件台風時以後の豪雨等気象状況も考慮するなどして、これらを総合的に判断したうえ、本件台風時に崩壊したと認められる崩壊とそうでない崩壊とを区別、判断しているのであるから、右判断は肯認でき、これを左右するに足りる的確な証拠はないものというべきである。したがって、控訴人らの右主張は採用できない。

次に、山口解析が、伐採地と非伐採地の崩壊の関係について述べる点が不合理であるとの点については、山口解析は、非伐採区における崩壊は当然のこととして伐採と関係なく発生し、しかも、一般的に崩壊深度が深く深層崩壊に該当すると認められる(なお、平田鑑定において、右崩壊はいずれも表層すべりと判断されているが、前記のとおり同鑑定人は数メートルの深さまでを表層すべりとして把握しているのであり、同鑑定の結果によると各崩壊の深さは概ね1.5メートルから二メートルと認められており、これは山口解析のいう深層崩壊に相当するものといえる。)のであるから、非伐採区の面積と崩壊個数及び崩壊面積との比率を相対的に伐採区にも当てはめ、伐採区においても森林伐採と関係なく発生したと思われる崩壊を推定したものであるが、このような方法も一つの比較方法あるいは確率に基づく推定方法として合理性を失うものではないということができる。そして、山口解析は、前認定のとおり、A崩壊地の地質及び地形的要因を十分分析したうえで、有林地と無林地における崩壊の一般的傾向性を知り、A崩壊の原因についての確認又は検証するために右推定方法を用いているのであり、右推定からのみA崩壊の原因を基礎づけているわけではない。したがって、A崩壊地の地質、地形が前認定のとおり認められる以上、仮に控訴人ら主張のように、山口解析が有林地とした中には伐採跡地に造林した幼齢造林地が含まれるなど仮にその対象地とした点に正確性を欠く面があったとしても、そこまで厳密な選別は要求されないものというべきで、これが右推定を不合理とするものということはできない。なお、控訴人らは、山口解析が、伐採に起因しない崩壊と伐採に関係する崩壊の深度の一般的な差について用いた統計的数値についても論難するが、<書証番号略>に照らし、右数値が不当であるとはいえない。

さらに、控訴人らは、山口解析がA崩壊が地形、地質的輪廻によるものと判断する点を論難する。しかしながら、山腹崩壊は、素因と誘因の複雑な組合せによって発生するものであるから、その二つの要因の分析が必要となるが、右素因の内容は極めて複雑であってその解明は容易でなく、崩壊の機構や形態も単純でないこと、さらに、ある豪雨で崩壊を免れても次に襲来した豪雨が前の豪雨より累加雨量が小さいにもかかわらず崩壊を起こすなど、誘因との対応性は更に複雑であるということができる。そして、山口解析は、土面川流域における崩壊発生状況につき年次を区分してその動向を検討し、さらにA崩壊地の地形及び地質的要因を可能な限り解析し、これに後記降雨要因を総合して崩壊原因を究明しているのであって、かかる方法は科学的分析方法として十分合理性を有するものといえるし、山口解析は、かかる崩壊発生状況の概況に素因と誘因の複雑な関係性を総合、考慮したうえ、A崩壊地が崩壊に至る地形及び地質的輪廻に達していたと表現していると考えられるのであり、何ら不当とするに足りない。控訴人らの右主張は、国土研報告を根拠とするものであるが、同報告は、A崩壊地の素因としての地形、地質についてほとんど検討していないに等しいものであるし、しかも誘因となるべき降雨については、後述のように何ら土面川流域の降雨量を推定するなどの手法を採らず、屋久島測候所の観測結果を安易に採用しているに過ぎないなど重大な欠陥を有するのであって、同報告は、要するに、森林の有する公益的機能のうちの崩壊防止機能を過大に評価し、屋久島の山地における崩壊発生状況の統計的分析から直接A崩壊の崩壊原因を導き出しているというべきものであり、かかる方法は、特定の崩壊に対する個別具体的な検討を欠くもので、科学的合理性を有するとはいえない。したがって、A崩壊発生当時、土面川流域の林地、特にA崩壊地付近の山林が、伐採からおよそ一〇年程度を経過した杉の幼齢林であって、土壌緊縛力が弱くなる時期にあたるとしても、この一事をもって前記山口解析の判断を左右するに足りるものということはできない。

(四)  集材方法の不適切さに起因するとの主張について

また、控訴人らは、A崩壊等土面川流域における崩壊は、伐採された立木を搬出する際の集材方法が不適切であった、すなわち、集材のためワイヤーで搬出するに際し、これが地面を攪乱して地表面を裸出させる結果となり、このため崩壊が発生し、このことは、本件災害後に土面川の支渓の集材架線がはられ、集材作業施設のある場所の真下付近(別紙図面3の赤色で記入した部分)で二つの大きな崩壊(以下これを「B崩壊」「C崩壊」という。)が発生していることからも明らかである旨主張する。

よって検討するに、<書証番号略>によると、控訴人ら主張のB、C崩壊は、昭和六〇年七月から同年一〇月までの間に生じたものであり、その付近に集材架線が張られていたことは認められるが、右<書証番号略>に照らし、ワイヤー集材方法が山腹崩壊に影響を与えるような地表面の攪乱をするとまでは認められない。なお、平田証言中には控訴人らの主張に副うような供述部分があるが、同人は一つの可能性として述べているだけで、具体的な調査に基づくものではないので採用できない。したがって、控訴人ら主張の、伐採木集材方法と崩壊の関係性は未だこれを認めるに足りる証拠はないものというべきである。

そして、かえって、<書証番号略>によれば、B、C崩壊の発生した箇所は、いずれも約四一度強の傾斜地であり、A崩壊地と同じく風化した花崗岩地帯であって花崗岩の硬い岩層が露出しており、B崩壊地では深部で湧水しているのが確認されており、また、崩壊深度も約1.5メートルから二メートルと深いこと、B、C崩壊の発生した期間である昭和六〇年八月六日から同月八日までと、同月二九日から三一日までの各三日間の連続降雨量は、土面川中流地点(標高七二〇メートル稜線上の後記3(二)(2)④の自記雨量計設置地点)において、前者が九九三ミリメートル、後者が一〇二九ミリメートルという多量の降雨があったことが認められ、これらの事実に照らすと、B、C崩壊もA崩壊と同じく地形、地質的要因と豪雨によってもたらされたものと推認できる。したがって、控訴人らの右主張は採用できない。

3  本件災害時の降雨について

国土研報告、山口解析、<書証番号略>、当審証人奥田穣の各証言、山口証言、下川証言並びに弁論の全趣旨を総合すると、次のとおり認められる。

(一)  本件台風の発生

昭和五四年九月二三日、カロリン諸島付近にあった熱帯低気圧が発達して本件台風となり、同月二六日朝から北上し、同日一五時に沖大東島で中心気圧九二〇ミリバール、中心付近の最大風速四五メートルと最も発達し、同月二九日夕方に北北東に向きを変え、同月三〇日朝に最も屋久島に接近し、種子島の南端をかすめ、同日夕方四国の室戸市付近に上陸した。本件台風は、黒潮本流に沿って北上したため勢力が強かったものの、この付近を通過する台風として必ずしも記録的なものではなかったが、日本上空を覆う太平洋高気圧に阻まれ、南西諸島を極めてゆっくりした速度で北上し、しかもその間勢力が衰えなかった。このため、奄美地方を中心に暴風雨の継続時間が長く、雨量も多かった。

なお、種子島、屋久島地方には、同月二六日、二七日に大雨・洪水等の注意報が、二八日一六時五〇分に大雨・洪水警報、強風・波浪注意報が、二九日一九時一五分暴風雨・洪水・波浪・高潮警報が発令されている。

(二)  本件台風による屋久島における降雨状況

(1) 観測雨量

本件台風は、同月二六日ころから屋久島に風雨の影響を与え始めたが、同月二八日と最も接近した二九日夜から三〇日朝にかけて集中的な豪雨をもたらした。右期間の降雨量の観測について、屋久島には、東部海岸線近くの小瀬田に屋久島測候所があり、気象庁(鹿児島地方気象台)において屋久島の降雨量として取り上げられるのはこの観測結果であるが、そのほかの観測施設として、屋久島電工株式会社が同島中央内陸部標高六九七メートルの安房川沿いに設けた小杉谷観測所があるほか、荒川ダム観測所、安房所在の県土木出張所内、宮之浦所在の上屋久町役場内、永田地区所在の永田中学校内等でも雨量観測がなされており、その結果は、前二者については別表1の1、2のとおりであり、荒川ダム観測所以外の後三者については、時間単位での観測結果はないが、日単位の観測結果は別表1の3のとおりである。なお、屋久島測候所と小杉谷観測所の観測雨量をグラフ化したハイエトグラフは別表1の4のとおりである。また、右観測地点のうち主要な観測地点の位置関係は、別紙図面5の屋久島における気象観測地点位置図のとおりである。

右の屋久島測候所と小杉谷観測所の観測結果によると、同月二六日から同月三〇日までの五日間の全雨量(連続雨量)は、屋久島測候所では四四一ミリメートル、小杉谷観測所では一二一〇ミリメートルで、日単位の雨量は、屋久島測候所では、二六日から三〇日まで順次58.5ミリメートル、24.5ミリメートル、159.5ミリメートル、81.5ミリメートル、一一七ミリメートルであり、小杉谷観測所ではおなじく、107.5ミリメートル、一〇六ミリメートル、519.5ミリメートル、179.5ミリメートル、297.5ミリメートルである。

右の観測結果から、本件台風は、屋久島測候所と小杉谷観測所のハイエトグラフの形状が類似することから、内陸部と海岸部で同様の時間的変化で降雨をもたらしていること、そして、海岸部と内陸部では後者に前者の約2.7倍の雨量があったこと、さらに、本件台風に特徴的な点は、二八日と二九日から三〇日未明にかけて二つの降雨のピークがあるということができ、これを小杉谷観測所の観測値からみると、二八日五時から一一時にかけての六時間で二五五ミリメートル、二九日二二時から三〇日の四時にかけての六時間で二五六ミリメートル(これを最大二四時間雨量について計算すると第一のピークの二八日〇時から二四時まで519.5ミリメートル、第二のピークの二九日一一時から三〇日一一時までに四四七ミリメートルとなる。)の降雨があったことになり、四五〇ミリメートル以上の降雨が数時間の間隔をおいて二つのピークをもって来襲したことになる。

なお、統計的な観点から右雨量をみた場合、二九日の降雨量は、日単位の降雨量から判断すると予測不可能な異常豪雨ということはできず、むしろ最も頻度の大きい通常訪れる豪雨ということができ、特に屋久島測候所の観測による一時間最大五二ミリメートル、日最大159.5ミリメートルの数値は、屋久島の海岸平地において一年に三回は接近する台風により二年に一回は起こり得る降雨ということができる。しかし、これを連続雨量としてみた場合、特に小杉谷観測所の観測結果による五日間で一二五〇ミリメートルの降水量は、過去の観測結果と対比して過去二二年間で三回出現している程度の豪雨に該当する。

(2) 土面川及び永田川流域における降雨量の推定

土面川流域には、雨量観測施設が存しないため、その降雨量は推測するしかないところ、山口解析は、以下の諸点から、本件台風により土面川流域においては、少なくとも小杉谷観測所地点と同程度かさらにそれ以上の降雨量があったものと推測している。

すなわち、一般的に屋久島における降雨は、局所的あるいは標高によって極度に地域的変化が激しく一概に類推することは困難であり、ある程度割り切った判断をせざるを得ず、屋久島測候所、小杉谷観測所、荒川ダム観測所の観測結果から推測するしかないものというべきところ、

① まず位置的関係において、降雨量は標高と密接に関係し、標高の増加とともに降雨量も増加することがよく知られているので、標高三六メートルの海岸部に所在する屋久島測候所よりは、内陸部に所在し標高も近く、また距離的関係も近い小杉谷観測所のデータの方がより類似すると思われること、屋久島測候所と小杉谷観測所のハイエトグラフは基本的に類似した形状を示しているので、降雨の時間的変化は土面川流域においてもほぼ同様に考えられること。

② 降雨は、台風の進路、位置、主風の方向も関係し、台風時の風は中心部に向かって反時計回りに吹き込むことになるが、これに屋久島測候所で観測された風向を土面川流域との位置、地形関係の相違から修正、考慮して検討すると、本件台風は屋久島の東方海上を通過しているので、その進行に伴い土面川流域では屋久島測候所より少し早めに北北西あるいは北西の風が吹いたことが考えられ、そうすると、土面川流域の地形、すなわち同地域が志戸子岳(標高907.9メートル)、吉田岳(標高1165.2メートル)、永田岳(標高一八八六メートル)の山岳を分水嶺として、これらにより概略北西から南東にかけてせり上がった地形であることから、収れん性降雨(風が谷を駈け上ることにより加速度的に上昇気流が発達して雨量の増加をもたらす現象)が起こったことが考えられること。

③ 小杉谷観測所の地点における安房川については、その河川流量の実測結果が存するところ、その観測流量は、小杉谷観測所の観測雨量を基にして、その地形的要因等を考慮して算定した右降雨量で生ずべき同地点の推測流量を上回っていることから、同地点より上流域では更に多くの降雨量があったと推測されること。

④ 被控訴人は、本件台風時の土面川流域の降雨量を推測するため、昭和五八年七月ころ、土面川下流地点(永田地区内の標高一〇メートルにある上屋久営林署永田担当区事務所敷地内)、同中流地点(標高七二〇メートル稜線上)、同上流地点(A崩壊値付近標高九二〇メートル地点、以下「A地点」という。)の三箇所に自記雨量計を設置して各地点の降雨量を観測し、その結果を屋久島測候所及び小杉谷観測所の観測結果と比較検討したところ、A地点は、昭和五九年度の年雨量で屋久島測候所の2.47倍、小杉谷観測所の1.41倍、月雨量で屋久島測候所の約1.7倍から7.5倍、小杉谷観測所の1.4倍から2.7倍、一連続雨量では、屋久島測候所の1.5倍から四〇倍、小杉谷観測所の0.8倍から3.4倍の各数値を示していることや、その他比較検討した点から、土面川流域では標高が高くなるほど降雨量が増加する傾向にあり、特に源流部は更に多いことが推測され、また、降雨量の関連性は、屋久島測候所より小杉谷観測所の方がより近いものと考えられること。

(3) 昭和六二年台風一九号からの推定

なお、その後、昭和六二年一〇月に発生した台風一九号は、本件台風と類似する進路をとって北上したが、右台風が屋久島にもたらした同年一〇月一四、一五、一六日の降雨の観測結果によると、A地点の雨量は小杉谷観測所のそれを上回り、一五日の雨量は小杉谷の四倍以上の、最も降雨量の多かった一六日については小杉谷観測所が五八五ミリメートルであったのに対しA地点では一〇一二ミリメートルもの多量の降雨があり、小杉谷観測所の1.7倍の雨量が観測されている。

(4) 右推定の合理性について

そこで、山口解析の右推定の合理性について検討するに、山口解析が、本件台風時に土面川上流域において小杉谷観測所の観測雨量と少なくとも同程度の降雨量があったと推定したことは、前記(1)、(3)認定の事実及び(2)の諸点に照らし十分合理性を有するものというべきである。

控訴人らは、山口解析の右推定は、風向を考慮しておらず、また、鹿児島県が一〇年余をかけて屋久島の雨雪量の分布を総合調査した水文報告を無視しているなど合理的なものとはいえず、本件災害時の降雨は、国土研報告において指摘されているように、屋久島にとって一年に二回は接近する台風により二年に一回は起こり得る程度の雨量過ぎず、屋久島測候所の観測雨量より多かったとしても、要するに屋久島の山地にとって通常みられるありふれた程度の豪雨に過ぎない旨主張する。

そして、当審証人奥田穣の証言(以下「奥田証言」という。)によると、風向と降雨量の関係の分析が十分でない点は山口解析の重大な欠陥であるとの供述部分がある。

しかしながら、証人奥田は、その専門領域である気象学の観点に基づく分析的手法として、降雨を検討するためには風向との関係吟味が必要であるとの専門的所見から批判的見解を述べているとも解せられるのであり、現に、同証人は、山口解析が現実に観測された数値である小杉谷観測所の測定結果をもって土面川上流域の雨量を推定していることにつき、控訴人ら代理人の、小杉谷観測所での雨量でもって土面川流域の雨量を推定することは成り立たないのではないかとの質問に対しても、エラーはあるけど不可能である旨、あるいは、防災上やむを得ない旨証言し、山口解析の右推定を全面的に排斥しているものではない。そして、事後に被控訴人による土面川流域で観測された降雨量の数値について、十分な関心を寄せ、同流域が相当な多雨地帯であることを認める証言をしている。なお、本件豪雨が異常豪雨といえるかについて同証人は、気象庁では、二二年間に三回程度の出現確率ではこれを異常とはいわない旨述べるが、反面、約五〇〇ミリメートルという最大日雨量についてはこれが相当な大雨であることを認めている。

そして、山口解析は、本件台風の進行に伴い、台風の位置及び距離関係から、屋久島測候所の風向(主として東寄りの風で三〇日六時ころから北寄りの風に変わる。)を修正し、同地点よりやや早めに北寄りの風に変わったと判断しているのであり、風向を一応考慮しているのであるから、風向を全く考慮していないとの控訴人らの非難は当を得たものとはいえないばかりか、控訴人らの主張の根拠である国土研報告は、本件台風時の風向について、もっぱら屋久島測候所で観測された右風向を基礎とし、証人奥田がその研究において引用するルドルフ・ガイガーの実験を本件に当てはめ、本件台風時には土面川上流域よりむしろ一湊川流域に多くなければならないとしているが、右ルドルフ・ガイガーの実験を地形の複雑な屋久島に当てはめることが当を得たものといえないことは奥田証言の明言するところである。そして、国土研報告は、それ以上に土面川流域の雨量を具体的に推定することを全くしていないのであって、同報告が、屋久島測候所の雨量のみをとらえ、本件台風時の雨量について「ありふれた降雨」と速断しているのは極めて軽率とのそしりを免れず、この点は、同報告のメンバーの一員である証人下川が同証言において自認しているところであり、後に同証人がまとめた<書証番号略>の研究報告において、海岸に近い低地で観測された値を用いて山岳地での山崩れ、土石流の発生を検討するには無理がある旨、また、山岳地での総降雨量は、四〇〇ミリメートル以上という海岸平地での値から判断して少なくともその二倍の八〇〇ミリメートルに近い値を示したものと考えられる旨報告していることからも明らかというべきである。

さらに、これに加え、山口解析は、事後に土面川流域の三地点に設置された雨量計による観測結果を踏まえて推定をなしているのであり、かかる実際の測定結果は、気象学において降雨分布等の一般的傾向性を知るための手法による分析に増してより現実的に重要な意味を持つものといわなければならないし、昭和六二年一〇月発生の台風一九号時の雨量も山口解析の推定を十分裏付けるものと認められる。

また、控訴人らは、山口解析が水文報告を無視していると論難する。ところで、右水文報告は、鹿児島県が屋久島の総合水力開発計画を検討するため、より確実な水文の実態を把握する目的で、屋久島の調査対象地域二二箇所に観測点を設置して昭和三九年四月から昭和四一年一二月まで継続的に観測を行って降雨量の分布を調査したものであるが、土面川上流域あるいはその集水域については観測点が設置されていない(なお、右各観測点は別紙図面5の黒点記載のとおりである。)。したがって、右報告によっても土面川上流域の雨量については推測するしかないところ、控訴人らは、同報告(二八頁ないし二九頁)が、「降雨量は降雨気流の移流方向に面した斜面、いわゆる前岳部分に最も多く、最多雨量点はこの前山の六〜七合目付近に現れる。前山の最多雨量点をすぎると、海岸からの距離に比例して雨量は減少し、背風斜面海岸では微小量又は風向海岸の数分の一となる。」としていることから、これに本件台風時の屋久島観測所で観測された前記風向を前提として主張するものである。

しかしながら、前掲各証拠及び弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる<書証番号略>によれば、本件台風時における風向は、台風の進行に伴って変化していることが認められ、土面川流域は、屋久島測候所と位置的あるいは本件台風との距離及び位置関係が異なるのであるから、屋久島測候所の風向と一致するとの確証は何ら存しない。そして、<書証番号略>によると、昭和六二年一〇月の台風一九号について、土面川流域で一〇一二ミリメートルの降雨をもたらした同月一六日の風向はほぼ北東あるいは北北東の北寄りの風であることが認められるし、さらに、この点は、下川証人が<書証番号略>において、水文報告から引用して一九六五年九月の六五二四号台風等の際の風向と降雨分布を検討しているが、右記述においても、調査期間中に発生した台風及び熱帯低気圧について、北東あるいは北北東の主風向が出現した割合は七三パーセントにもあたり、これに基づいて水文報告の降雨分布を推測して描いた多雨地帯には、安房川上流域等のほか土面川中・上流域が含まれていることからも裏付けられるものということができる。

以上要するに、地形の複雑な屋久島において、その降雨量を推定するについては、風向との関係が重要な要因であることは否定できないとしても、風向は刻々変化することが考えられ、これに伴い本件台風時に北よりの風が吹いた可能性は高いものであるし、これに加え、標高等の地形的要因も重要であって、これらの総合的判断から降雨量を推測すべきであって、したがって、山口解析が、かかる諸点を考慮し、土面川流域の降雨量を近似する地点である小杉谷観測所で観察された雨量をもって推測し、しかもこれを少な目に算定していることは、科学的な合理性の範囲を逸脱するものとはいえず、右推定は、十分合理的なものとして首肯することができるというべきである。

4  まとめ

以上によると、本件台風時において土面川流域では、これを異常豪雨というかどうかは別として、およそ日雨量五〇〇ミリメートルの豪雨が二つのピークをもって僅かの時間を置くだけで連続的に来襲しているのであって、これは、山腹崩壊の誘因となるに足るべき十分な雨量であったと認められる。

そうすると、これに前記1の本件地域の地賃及び地形的要因を総合して判断すると、本件土石流発生の引き金となったA崩壊は、素因であるその地形及び地質的要因と誘因である前記豪雨によって発生したもので、しかも林木根系の土壌緊縛力など崩壊に対する抑止力の及ばない深層崩壊であると認められるから、控訴人らが、A崩壊を森林伐採により発生したとする主張はこの点においてすでに理由がなく、少なくとも控訴人らの右主張は、その根拠である国土研報告が採用できず、他にこれを認めるに足りる証拠はないものというべきである。したがって、控訴人らの本件災害発生の原因(一)に関する主張はこの点において理由がなく採用できない(なお、本件土石流が控訴人らの住居を直撃していないことは後記四に認定のとおりである。)。

しかしながら、控訴人らは、前述のとおり、本件土石流の発生について、土面川渓底に堆積していた森林伐採に起因する土砂石のほか、被控訴人施業に係る伐採及び搬出作業の過程において、枝打ち等により立木の枝葉が渓底に投棄され、これら不安定堆積物がこれがA崩壊による土砂石とともにダムアップ現象を起こして土石流を発生させたと主張する(本件災害発生の原因(二))ので、以下、本件土石流の発生、流下及びこれに伴う土砂石の流送等について検討する。

四本件災害発生の原因(二)について

<書証番号略>(いずれも土面川流域の航空写真)、<書証番号略>、土面川流域の航空写真であることに争いがなく、原審証人木村春彦の証言により昭和五五年に撮影されたものと認められる<書証番号略>、下川証言により控訴人ら主張のとおりの写真であると認められる<書証番号略>、(以上いずれも土面川流域の写真、ただし、撮影対象につき争いのないものは、原審の書証目録の認否欄記載のとおりである。)、<書証番号略>、山口解析、山口証言、下川証言(一部)、原審証人木村春彦の証言(一部)を総合すると、次のとおり認められる。

1  本件災害時の土面川及び永田川の流量の推定

土石流や土砂石等を流下させる流量について、土面川及び永田川においては、いずれも観測資料が存在しないところ、山口解析は、以下のとおり両河川の流量を推定、判断している。

(一) 前記のとおり、土面川流域においては小杉谷観測所と少なくとも同程度の降雨量があったと推定されるから、同観測所の降雨量のハイエトグラフ(ただし、同ハイエトグラフは一時間単位であるが、二〇分単位が望ましいので近似的に二〇分毎に区分したもの)を基礎として、これに、土面川及び永田川流域面積、エロングーション比、起伏量、流域水文指標等の各水文解析要素を与えて、まず土面川、永田川のハイドログラフを誘導したうえ、これに、前記三3(二)(2)③の小杉谷観測所観測雨量に基づき前同様に算出した安房川の推算流量と同地点で観測された実際の流量が異なるので、同地点での推算ハイドログラフと実際の観測ハイドログラフの比率でもって補正を加えて推定し、その結果、最終的に別表2の本件推定ハイドログラフが得られる。

(二)  本件推定ハイドログラフによると、土面川においては、二九日一四時ころから増水が始まり、一五時三〇分ころから二二時ころまで毎秒四〇ないし五〇立方メートルの割合で凹凸状に減水あるいは増水し、二二時ころから急激に増加し、三〇日二時から四時二〇分ころまでの間に毎秒一〇〇ないし一一〇立方メートルの最大流量が流下したことが認められる。なお、最大流量出現時刻は、三〇日二時四〇分ころである。次に、永田川は、流域面積が土面川の約六倍と広いが、ハイドログラフの推移はほぼ同様の形態を示し、二九日一五時三〇分ころから二二時ころまで毎秒約三〇〇立方メートルの割合で凹凸状に減水あるいは増水し、二二時ころから急激に増加し、三〇日二時三〇分から四時ころまでの間に毎秒六〇〇ないし六六〇立方メートルの最大流量が流下している。なお、最大流量の出現時刻は、土面川と同じく三〇日二時四〇分ころである。

(三)  なお、控訴人らは、本件推定ハイドログラフについても合理的でない旨主張するが、その前提である降雨量の推定について控訴人らの主張が採用できないことは前述のとおりであるから、控訴人らの右主張は採用できず、他に右山口解析の判断を左右するに足りる的確な証拠はない。

2  本件土石流の発生と土面川における渓底堆積物について

(一)  本件土石流は、前記豪雨により発生したA崩壊により流出した土砂石が大量の水分を含んで流下して渓底土砂石に突入し、これらが急勾配の渓床を駆け下るうちに、水と石礫の衝突現象を起こし、相対密度の小さな高濃度の混合物を形成して土石流となり、さらに土面川渓底に堆積していた不安定堆積物を巻き込みながら、渓床渓岸を浸食しながら肥大していったものであると認められるが、右の渓床不安定堆積物について、山口解析は次のとおり判断している。

(1) 土面川流域は、四つの支渓に区分されるが、前記三2(二)(4)のとおり、本件豪雨による崩壊は、その全面積に対し約0.7パーセント程度であり、一般の風化花崗岩地帯の豪雨による崩壊率と比べ特記すべき数値ではなく、むしろ少ない方にあたる。したがって、土面川渓底に堆積していた土砂石は、A支流の地質、地形的要因によってもたらされた堆積土砂石や渓床岸の浸食作用によって生じたものと認められ、本件台風時の崩壊により堆積したものとは考えられない。

(2) A支流の源流部から土面川本流との合流点よりも上流部までの間は、非常にジョイント節理が発達しており、右岸が流れ盤(傾斜方向に対して同一方向の節理)、左岸が受け盤(傾斜方向に対して逆の方向の節理)の状態で、いずれも岩崩壊が発生している。また、この節理に沿って局所的に風化した箇所があり、本件災害発生当時、これらの風化によって細粒土砂石が崩落岩塊とともに相当量渓床に堆積していたものと判断される。なお、これらの堆積物は、長年にわたる節理崩壊、風化の進行によって形成、蓄積されたものであり、A支流が切り立った断崖になっていることも加わり、森林による防止機能も及ばないものと考えられ、伐採との関連性は認められない。

(二) ところで、控訴人らは、土面川渓底には、伐採及び搬出作業の際、伐根や枝打ちされた枝葉等大小多量の投棄された木材がうず高く堆積しており、これが土石流発生の一因となった旨主張し、原審証人柴槌哉の証言中には、伐採後枝打ちしたものはほとんど渓流に投棄した旨の供述部分がある。しかしながら、原審証人瀬崎茂雄の証言によると、搬出作業の過程で枝打ちされた一定の径級(直径三センチメートル)以下の枝葉等が多少は投棄された事実があることは認められるがこれが土石流発生の要因となるほど多量に堆積していたとは認められず、右証人柴の証言はたやすく措信し難いし、他に土面川渓底に土石流発生の一因となるに足りるほど多量の枝葉等の伐木が堆積していたと認めるに足りる証拠はない。

また、控訴人らは、土面川渓底に堆積していた土砂石は伐採に起因する崩壊によるものである旨主張するが、山口解析、山口証言及び下川証言によると、土面川流域には、過去にも大きな深層崩壊を起こした形跡が認められることや、その急峻な地形的要因と多くの豪雨(台風)来襲により浅層崩壊を恒常的に起こし、これにより土砂石が堆積していったことが認められることなど、右の山口解析の判断に照らし控訴人らの右主張は採用できない。おな、控訴人らは、本件災害当時、土面川渓流の斜面は断崖状にはなっておらず、本件土石流の通過によって削り取られた旨主張するが、これを認めるに足りる証拠はない。

そして、他に山口解析の右判断を左右するに足りる的確な証拠はなく、その判断は相当として肯認できる。

3  土石流の流下、消滅について

前記のとおりA崩壊を引き金として発生した本件土石流の流下及び消滅について、山口解析は、土木コンサルタントの実測測量に基づく土面川渓床断面及び渓床面積、また、これによる流下土砂石量の推定等に基づき、次のとおり判断しており、この判断を左右するに足りる的確な証拠はない

(一)  土面川において、別紙図面3記載の土面川平面図記載のA、B(以下同図記載の地点を示すときは単に「A地点」)などという。)区間は、渓床堆積物が局所的な凹部を除いてほとんど流送され、渓床母岩が裸出損摩している状況であり、土石流発生、流下の地帯であったことを示している。

(二)  土木コンサルタントで渓床断面及び面積を実測し、これに基づき推定した土砂石量は、山腹崩壊し流出した土量二〇〇〇立方メートルを含め、約三万八〇〇〇立方メートルの土砂量がC地点を通過し、C地点付近で約三万六〇〇〇立方メートルが渓床に堆積し、C地点以降の渓床渓岸浸食量が約一万九〇〇〇立方メートルであり、合わせて下流へ約二万一〇〇〇立方メートルが流送されことが認められ。

(三)  土面川中流域のC地点付近から上流部においては、渓床等に侵入した植生が一木一草に至るまで洗掘され、石礫等もかなり損摩された状況が認められるが、C地点から下流部においては草木等が局所的に残留しており、巨大なエネルギーを持つ土石流が通過した跡とは認められない。

また、河口から五〇〇ないし二三〇〇メートルの区間にはシーブデポジット(石礫が各個運搬により交代しながら堆積した形態)が形成されており、これは土石流の堆積形態ではなく、掃流力によるものである。

さらに、下流帯においては、堆積石礫には必ずしも大径石の存在は認められず、中流部の両岸帯に旧に押出堆積が再浸食され大径石の露出した状況がみられるが、これが本件土石流で流下したものとは判断されない。とくに、最下流部E地点における橋梁が破壊されなかったが、右橋梁の大きさからすると、ここを疎通した最大石礫は、最大限に見積って一メートル程度と判断され、それ以上の石礫が集合体として流下したとすると、右橋梁で閉塞されるか、あるいは橋が破壊されるとしか考えられない。

(四)  以上を総合すると、B地点以降は、その勾配からいわる一般的な土石流の停止区間であり、C地点以降の地帯は、かなり古い時代からの堆積帯としての様相を呈していることが窺われる。

すなわち、上流からB地点までは急勾配でその距離的変化も大きく、B地点以降は勾配も緩やかでその距離的変化も小さくなっており、B地点までが土石流の発生及び流送地帯となり、B地点以降が停止地帯となる。河口から一三〇〇メートルないし二三〇〇メートルの区間に土砂石の堆積区間があるが、これは土石流が緩和され土砂が堆積したものとみなされ、したがって、本件土石流は、B地点から次第にエネルギーを失い、河口から二三〇〇メートルのC地点ないし一五〇〇メートルの地点までの区間においてフロント部が解体されて消滅したものと推認される。

そして、河口から一三〇〇メートルまでの下流区間は、流水の掃流力理論による土砂の移動であり、土砂が洗掘あるいは堆積を繰り返しながら流送され、二〇〇メートルより下流地帯に土砂の堆積が行われたとみることができる。

(五)  しかるに、控訴人らは、上流から流下してきた土石流がC点に堆積し、これがダムアップ現象により再び決壊して土石流となり、あるいは再度流下し、この土石流が直接下流を襲ったものである旨主張し、前記証人木村春彦の証言、下川証言及び前記<書証番号略>の写真(およそ前記平面図のC地点に相当する箇所)には右主張に副うような供述部分等があり、また、国土研報告には、「同地点に堆積した土砂石の量は約五万立方メートルと推定され、この地点より上流にはほとんど土砂の堆積は認められず、浸食が顕著にあらわれている。同地点に堆積しなかった土砂石と流木、同地点に堆積後再び浸食されて移動した土砂石は、さらに浸食堆積を繰り返しながら、大部分は土面川を流下してD地点で橋を破壊し、さらにその下流の床固工の根入れ部を浸食、残りはD点のやや上流部分の右岸側からオーバーフローして住居区域を直撃し、土面川、永田川河口に堆積した。」旨記載されている。

しかしながら、右国土研報告による土砂堆積量の算定は、下川証言も自認するように概略であって確たるものといえず、C地点は川幅が相当広い箇所であり、ダムアップ現象を起こすような膨大な量の堆積がなされたとは認め難く、また、同地点の渓床の状況は本件土石流によって形成されたともにわかには認められない(この点に反する下川証言は、山口解析及び山口証言に照らし、にわかに採用できない。)。さらに、国土研報告は、右記述に続いて同地点付近等の水流の速度を算定して土砂石の流送が激しい勢いでなされたことの根拠としているが、右流速計算は清水の速度の算定方法を用いるなど相当でないといわざるをえないことや、同地点以降に局所的に草木が残留していること、河口付近に流下してきたと思われる大径口の存在は認められないこと(<書証番号略>により、土面川下流近の土砂石は、本件土石流により流送されたものとは認められず、また、永田川河口海岸部の大径石も本件土石流によるものではない。)などの前認定の事情や、後述の住居の被害状況の点から土石流が住居を直撃したとは認められず、前記山口解析の判断を左右するものとはいえず、控訴人らの、土石流直撃、あるいはダムアップによる土石流の発生の主張事実はいずれもこれを認めることができない。

そうすると、控訴人らの本件災害発生の原因(二)に関する主張は採用することができない。

五本件土石流発生の原因(三)について

前記四の認定事実によれば、本件土石流により流送された土砂石等が土面川及び永田川河口を塞いだとの控訴人らの主張事実を認めることは到底できない。かえって、後記認定のとおり本件台風がもたらした豪雨により土面川及び永田川が溢水氾濫し、本件災害が発生したことが認められるのである。したがって、控訴人らの本件災害発生の原因(三)に関する主張も採用することができない。

1  土面川及び永田川の溢水氾濫状況について

前記1の土面川、永田川のハイドログラフ、同2、3の土石流の発生と土砂石の流下、流送、並びに、これに土面川の疎通能力等を総合すると、土面川、永田川の溢水氾濫状況として、次のとおり認められる。

(一)  本件推定ハイドログラフによると、土面川、永田川における最大流量出現時刻が両流域ともほとんど一致し、三〇日一時ころから四時三〇分満水の状況にあったと判断される。

(二)  河口の状況につき、別紙図面3の平面図記載E点の土面橋、同F点の永田橋付近の河道断面は、別紙図面1のとおりであるところ、土面橋付近の流量疎通能力は、毎秒一四二立方メートルであるが、土砂が0.5メートル堆積した状態では毎秒約一一〇立方メートル、一メートル堆積した状態では約毎秒七八立方メートル、1.45メートル堆積した状態では約五二立方メートルであり、また、永田橋の上流三〇〇メートルの付近のそれは、毎秒約四一三立方メートルである。

ところで、土面橋の河床は、もともと主桁から約三メートルの高さがあったものであるが、本件災害直後一ないし1.5メートル程度まで河床が上昇しているが、本件台風による豪雨は二つのピークがあったので、最初のピークである二八日の豪雨で河口にかなりの地砂石が堆積していたものと認められ、三〇日の第二のピークによる増水時までには、0.5メートルないし一メートル程度河床が上昇していたことが窺われる。

そうすると、土面川における三〇日一時ころからの流量は毎秒85.3立方メートルで、二時は毎秒94.2立方メートルであるから、このころには土面橋付近の流量は疎通能力を越え、越流したものと推定される。また、永田川は、永田橋上流三〇〇メートルの付近で、二九日二四時にはすでに疎通能力を越え、三〇日一時過ぎにはすでに越流氾濫状態にあったと推定される。

(三)  また、本件災害時の潮位の満潮時刻は、二九日二三時五六分であり、右最大流量の出現時刻とは約2.5時間の差があるものの、別紙図面3のとおり河口付近には大きな砂州が発達しており、これらにより生じた背水現象等の影響で土面川及び永田川がそれぞれ増水を始めるときに満潮と重なって排水を妨げ、また、ピーク時における両河川の氾濫に寄与する結果とおける両河川の氾濫に寄与する結果となったものと思われる。

(四)  なお、以上の点は、土面橋は欄干の部分が倒れるように損壊しているが橋自体は破壊されていないこと、家屋への浸水が非常に多い(林木、果樹園等の流失は認められるが、<書証番号略>中、土石流により家屋が全壊、流失したとの記載部分は、原審における証人岩川幸恵の証言及び控訴人田中勝彦本人尋問の結果に対比して措信し難く、他に全半壊の家屋が流失したことを認めるに足りる的確な証拠はない。)こと、原審証人岩川幸恵の証言及び原審における控訴人柴國江本人の供述中には、水が海の方向から来た旨の供述があることからも裏付けられるものというべきである。

国土研報告には、聞き取り調査の結果として、二九日二三時三〇分には低地に立地する家屋に浸水が始まり、三〇日〇時には県道に水が流れ込む、一時に山鳴りが起こる、一時三〇分に土面川はごろごろ音を立てて流れる、二時ころゴーという異常な山鳴りが起こる、二時五分過ぎからゴーという音とともに家が揺れ、水位が急上昇する等の記載があり、同報告は、これを土石流直撃の一つの根拠とし、また、<書証番号略>、原審における証人藤井ツナ、同岩川幸恵及び被控訴人田中勝彦、同柴國江各本人尋問の結果中にも右記載と同旨の記載及び供述部分があるが、土石流の直撃が認められないことは前記のとおりである。そして、土面川の本件越流氾濫時には、土石流は中流で消滅したとはいえ、流量は多く流れは激しかったのであり、この掃流力により相当な土砂石が流送されたのであるから、右聞き取り調査の結果は前記認定を左右し、あるいはこれと矛盾するものとはいえない。

2  森林の洪水流量調節機能について

控訴人らは、林地と裸地における洪水流量の差が驚くべき比率を示すとして、森林伐採が、その公益的機能である治水機能を失わせ、本件災害を助長させたかのように主張するので検討する。

本件地域は、伐採とその後に人工造林が行われ、およそ約一〇年程度経過しているのであり、裸地化されているものではないから、林地と裸地との洪水流量の差をもって本件災害を論ずるのは当を得たものとはいえないが、一般に、森林がその治水機能として、洪水流量、ことに豪雨時のピーク流量を調節させる機能があることはよく知られており、国土研報告、山口解析、山口証言に照らしてもこれを認めることができる。そして、右各証拠及び弁論の全趣旨によると、森林の樹林や林地は、降雨が樹冠に一時滞留させて後地表に到達することによる樹冠保留機能、樹冠に滞留している間に蒸発、発散させる樹冠遮断能、地表面に達した雨が林地の落葉腐植層や土壌により浸透能が増大し保水能力を高める機能があり、これらが豪雨時のピーク流量を調節するといわれている。

しかしながら、本件において、本件災害時の降雨量は、前記のとおり大きな連続雨量をもたらした豪雨であったのであるから、壮齢林と比し、樹冠貯留量及び同遮断量が多少その量が少なく出るとしても、これが本件災害時の洪水流量を増加させ被害を拡大させるなど、本件災害発生に影響を及ぼしたとは認められない。

六保護樹帯及び治山ダムの設置義務違反等について

以上によると、本件災害の発生は、被控訴人施業に係る国有林の伐採事業と因果関係を有するとは認められないのであるから、被控訴人の施業に係る国有林伐採事業のあり方については判断を要しないものというべきであるが、控訴人らは、右事業における伐採方針等を論難し、保護樹帯を設置していれば本件土石流の発生、あるいは流下を防止できた、また、土石流を防止すべき治山ダム設置義務についてもこれを怠った等主張するので、念のため検討を加える。

1  <書証番号略>並びに弁論の全趣旨を総合すると、次のとおり認められる。

(一)  屋久島における林業は、山林の所有権ないし利用権の帰属につき地元住民と国との間の争訟が終結したことに伴い、大正一〇年、民政の安定、生計の維持向上等地域の発展に資する目的で、いわゆる屋久島憲法と呼ばれる大綱が定められて以後、計画的な森林の経営管理が行われることになったが、右大綱により、奥岳地域の国有林は国の管理のもとに置かれ、前岳地域の国有林は、委託林(後の共用林野)を設定して、地元住民の生活と福祉との調和のもとに管理経営されることになった。

(二)  本件五八、五九林班においても委託林が設定され、天然更新を基本として伐採事業が行われてきたが、昭和三〇年代半ばから高度経済成長政策の進展とともに木材供給量の大巾増加が図られ、屋久島においても昭和三三年の生産力増強計画のもとに伐採量が増大し、昭和三六年ころからは、木材需要の増大と森林資源の充実を図るとの国の政策もあり、また、収益率が高く、就労の場も拡大できる人工造林方式にその経営方針の変更がなされ、このため共用林野組合を主体として上屋久町、屋久町、鹿児島県により社団法人屋久島林業開発公社が設立されるなどした。そして、年平均標準伐採量が、昭和三三年に7.6万立方メートル、昭和三六年には九万立方メートル、昭和四二年には17.5万立方メートル、昭和四四年には二〇万立方メートルへと急激な増産が実施され、その結果、屋久杉の減少、幼齢林の出現という問題が生じることとなった。

(三)  そこで、昭和四四年(当時は第一次地域施業計画実施期間であったと思われる。)、学識経験者に基づく国有林総合調査が行われ、同四五年に提出された右提言を受けて、昭和四七年四月一日から昭和五七年三月三一日までを計画期間とする第二次地域施業計画が策定されたが、さらに昭和四八年以降、新たに自然保護問題が提起され、屋久杉を含む貴重な森林の保護と資源利用的な側面との調和が求められ、屋久島国有林の施業につき抜本的に見直しが図られ、昭和五一年に実施された学識経験者による「特定地域森林施業基本調査」の提言(昭和五二年一月二九日提出)を尊重して、計画期間を昭和五二年四月一日から昭和六二年三月三一日までとする第三次地域施業計画が樹立された。

右第二次地域施業計画による森林施業の具体的内容として、自然的条件と技術体系からみて人工林の造成が確実であり、生産力の増大が期待される林分は特に除外すべきもの以外は、皆伐新植を行うとし、皆伐新植の留意事項として、皆伐箇所の分散のほか一伐区箇所の面積を制限し、さらに、保護樹帯について、保護樹帯は、小面積区画皆伐、帯状皆伐等特定の伐採方法を採用する場合を除き、新生林分の保護、土砂の流出の防備、自然景観の維持のため必要な尾根、渓流沿い、林道沿線等を主体として積極的に設けるものとし、その幅員は、概ね三〇メートル(平坦地)ないし四〇メートル(傾斜地)以上を基準とする、と定めている。

さらに、第三次地域施業計画では、森林は木材生産等の経済的機能及び国土保全・水源かん養・自然環境の保全・形成等の機能を有しており、森林施業にあたっては、森林のもつ多面的機能を総合的かつ最高度に発揮するよう留意する必要があるとし、伐採箇所の分散と伐区面積の縮小のほか、伐採にあたっては、効果的な保護樹帯の設置及び局所的な崩壊危険箇所の伐採見合せ等、現地に応じた適当な処置を講ずることとする旨定めている(右定めについては当事者間に争いがない。)。

また、これ以前の昭和五一年に、熊本営林局において、五一熊計第三二六号により「保護樹帯の取扱いについて」と題する通達を発し、これによると、人工造林地の拡大に伴い、風害、病虫害、火災等に対する新生林分の保護並びに土砂流出防備、自然景観の維持等公益的機能の確保を目的とし、渓流沿い、林道沿線等を主体として、積極的に保護樹帯の整備拡充を図ることとするとし、渓流沿いに設置する保護樹帯の設置基準として、隣接する河川渓流に対し、土砂の流出崩壊のおそれがある箇所に設置する、保護樹帯の幅員は、渓流の両岸からそれぞれ概ね三〇メートルを基準とし、現地の地形地質並びに崩壊の危険度に応じて調整するものとすると定めている(右通達の定めについて当事者間に争いがない。)。

以上によって、検討するに、控訴人らの主張は、本件A崩壊との関係で、どの場所にどの様な保護樹帯を設置すべきと主張するのか具体性がなく、極めて曖昧といわざるを得ないが、右の各規定から明らかのように、保護樹帯は、森林のもつ一般的な公益的機能を発揮させるため設置されるものであり、森林伐採に起因して通常発生することが予想される小規模の崩壊及びこれによる土砂の流出を防止すること等を目的とするものであって、少なくとも本件土石流のような地形、地質的要因に基づく大規模崩壊に対しこれを防止するという目的で設置されるものということはできないし、本件において、A崩壊は、前述のとおり、本件台風によってもたらされた豪雨とA崩壊地の地形、地質を要因として深層から発生した崩壊であって、森林の崩壊抑止機能が及ばないものと認められるうえ、前掲各証拠並びに前記認定によると、本件土石流は、標高約九〇〇メートルのA崩壊地から前記別紙図面3のC点まで標高差約五八〇メートルを一気に駆け下り、同図B点の治山ダムを破壊しているのであり、そのエネルギーは極めて強大で、保護樹帯があってもこれを阻止し得なかったものというべきであり、むしろ樹木を巻き込むことにより雪だるま式にそのエネルギーを増大する可能性さえ認められる。したがって、控訴人らの右主張は失当である。

2  治山ダムの設置と機能について

次に、治山ダムの設置について、治山ダムは、治山事業の一環として山地の荒廃を防ぎ、森林のもつ保水機能や防災機能を充実させるため設置されるものであり、渓床の安定、山脚の固定をすることにより、不安定土砂の移動あるいは山腹崩壊の防止を図るため設置するものであるが、本件土石流発生当時、被控訴人の施設としての治山ダムは前記B地点に一基設置され、これが本件土石流により破壊されたことは前記のとおりである(争いがない。)。

ところで、我が国の山地は、おしなべて脆弱な地質、急峻な地形で成っており、河川は各所に土砂災害や洪水氾濫という危険を内包しており、かかる状況下において、災害前に土石渡の発生を事前に予測することは現実的には極めて困難であるといわなければならない。

そして、<書証番号略>によると、土石流の制御法としては、人工障害物施設を築造する阻止法、土石流を被害のない場所に導いて堆積させる導流法、土石流の構成に人為的に変化を与えて流動特性を変えて抑制する変質法があるが、阻止法では、その効果の力学的評価について問題があり、これでもって土石流を完全に防ぐことは到底無理であるし、また、導流法では用地の確保が困難であり、変質法は未だ研究実験段階にあるといわれており、土石流の発生を防止あるいはその流下を抑止することは極めて困難であり、要するに今後試行錯誤を繰り返しながら研究しなければならない問題というほかない。

そうすると、現在設置されている治山ダムは、本件土石流のように、予測も困難で、かつ、その抑制も不可能というべき土石流を想定して設置するものとは認められない。したがって、被控訴人に、かかる土石流を防止すべき治山ダムの設置義務があるものとは認められないので、控訴人らの右主張も失当である。

なお、控訴人らは、治山ダムは、公の営造物にあたり、本件土石流によって破壊されたから、治山ダムの本来備えるべき安全性を欠いていたことになり、公の営造物の設置及び管理に瑕疵があったことに該当するとも主張するが、これが失当であることは、右の点から明らかであるというべきである。

七結論

以上を総合して判断すると、本件災害の原因は、本件豪雨に基づき土面川及び永田川河口に疎通能力を越える多量の流水が時を同じくして出現し、同時に流送された土砂石が土面川の土面橋付近を閉塞する結果となり、これに加え、河口付近の満潮の時間とほぼ一致するという状況が重なって発生した両河川の溢水氾濫によるもので、洪水によるものということができる。そして、A崩壊を引き金として土面川上流で本件土石流が発生したことは認められるが、右A崩壊自体、予想できない本件豪雨の来襲と、森林の崩壊抑止機能の及ばないA崩壊地の地形、地質を原因とする不可抗力の自然現象というべきであるし、しかも、これに起因して発生した本件土石流は、中流域で消滅し、土石流が直接河口を閉塞して氾濫を起こさせたとみることはできないし、土間橋付近に堆積したとみられる土砂石は、通常の流水の掃流力により流送されたものであるから、土面橋付近あるいはそのやや上流域での越流現象は、通常の河川氾濫と何ら変わるところはなく、したがって、本件災害は、いかなる意味においても土石流によるものとは認められない。なお、仮に本件土石流が右洪水に何らかの寄与をしているとしても、本件土石流自体が予見あるいは回避できなかったのであるから、やはり不可抗力というほかはないといわなければならない。

そうすると、本件災害の発生と被控訴人施業に係る国有林伐採事業は、何ら因果関係がなく、被控訴人にこれを防止すべき注意義務違反の事実は認められず、また、公の営造物である治山ダムの設置及び管理に瑕疵があった事実も認められないから、控訴人らの国家賠償法一条、二条に基づく本訴請求は、その余の点を判断するまでもなく、いずれも理由がなく棄却を免れない。

八よって、原判決は相当であって、本件控訴は理由がないから、いずれもこれを棄却することとし、控訴費用の負担について民事訴訟法九五条、八九条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官鐘尾彰文 裁判官中路義彦 裁判官郷俊介)

別紙1 控訴人別請求金額一覧表

控訴人   請求金額

日髙重喜 一四三〇万円

岩川實 一二六五万円

日髙才次 一一五五万円

大牟田常法 一一〇〇万円

藤井ツナ 一〇四五万円

田中勝彦 九三五万円

竹村健二 九三五万円

柴甲十郎 八二五万円

岩川健 七七〇万円

柴國江 七七〇万円

日高琴喜 五五〇万円

柴チヨ 五五〇万円

柴勝丸 三八五万円

柴八代志 五五〇万円

牧ツミ 三八五万円

柴鐡生 三三〇万円

岩川イツ 三三〇万円

岩川フミエ 一六五万円

岩川伍男 一二六五万円

岩川富儀 七七〇万円

村田万里子 一一〇万円

柴清弘 三三〇万円

岩川信夫 二二〇万円

別紙2、別表1、別表2、別紙図面1ないし5<省略>

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